November 11, 2009

伊豆演奏旅行記

前々回ご紹介したように、伊豆で開催された国民文化祭に参加しました。久しぶりに合唱ずくめの週末を過ごしました。せっかくですので、簡単にご報告いたしましょう。
土曜日はヴォア・ヴェールの単独ステージ。なぜか体調不良者が続出し、5人落ち状態で本番に臨むことに。もともと曲の内容も決して明るくなかったせいもあり、十分に会場を鳴らせなかったような気がします。お客さんから見ると少々しょぼくれた演奏に聞こえてしまったかも。
私としては、今できるレベルの演奏は何とか出来たかなとは思いますが、今後はもっと根本的に印象深い響きを作っていくべきと感じました。

2日間を通して松下耕さんの委嘱作の練習が何度も行われました。なかなか反応の悪い大人数合唱相手に高いテンションで導いていく松下さんの指導に感心。
作詩をされた山崎佳代子さんから、詩に対する思いを聞けたのは大変良い機会でした。合唱活動をしていると、自分とは決して交わらない世界と交錯することがあります。そういう貴重な体験の一つになりました。
練習中、松下耕さんから「もっと多くの作曲家の方に取り上げてもらって、広く歌われるべき詩です。ね、長谷部さん」と思わずネタにされ、山崎さんとも直接お話などさせて頂いたおかげで、何か来たるべき作品の予感がしてきました・・・後は、作曲の依頼だけです。

今回は自前のステージと、委嘱作の練習のおかげでついに他団体を一つも聴けませんでした。ママさん系が多かったようですが、かなりの高レベルの演奏もあったようですので、ちょっと残念。
国民文化祭自体のあり方にはいろいろ思うところもあるものの、団全体でのバスツアー、大交流会、温泉、と個人的には伊豆旅行を十分満喫してしまったのでした。

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November 04, 2009

国民文化祭の「合唱の祭典」に出演します

11/7,8に伊豆の国市アクシスかつらぎ大ホールで行われる合唱の祭典に参加します。
今回歌うのは、ヴォア・ヴェールの単独ステージとして、拙作「辞世九首」の全曲初演を、そして静岡県内の合同合唱団として松下耕委嘱の「瑠璃色の空の下で」と、混声合唱とオーケストラのためのカンタータ「水脈速み(みおはやみ)」の二作品を演奏します。よく考えれば全部初演ものですね。

「辞世九首」は日本史の9人の有名人の辞世の句に曲を付けたもの。一つ一つの曲は短く、9曲演奏しても12分程度です。有名な句も多いので、いくつかは知っている方もいると思います。歴史好きなら興味深い作品だと思いますので、お楽しみに。指揮は私。

「水脈速み」は山崎佳代子氏の詩によります。旧ユーゴの内戦を描いた反戦歌とも呼ぶべき内容で、なかなか重いテーマです。合唱表現30号でもこの曲について紹介されています。
この曲をオーケストラ伴奏で200人近い合唱で演奏いたします。指揮は松下耕氏。

同じ静岡県とは言え、伊豆はほとんど遠征と呼んでいい距離。早朝からのバスツアーでしんどい二日間になりそう。

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October 25, 2009

アンサンブルMora 1stコンサート

Moraそう言えば、まだお知らせしていませんでした。
11月17日(火)に、横浜のみなとみらいホールにて、アンサンブルMoraの演奏会があります。この演奏会で、拙作、二群の女声合唱のための組曲「へんしん」が初演されます。もう8年前に作曲した曲ですが、このたびようやく演奏できることになりました。
アンサンブルMoraは小田原少年少女合唱隊等でおなじみの桑原先生が指導している団体。やや年齢構成は高いですが(^^;、各メンバーの音楽的力量はなかなかのものです。
桑原先生がいるにも関わらず、なぜか客演指揮ということで、私が初演の指揮を務めることになり、何回か練習にお邪魔しているところです。

演奏会は全体で6ステージ。しかもハードなレパばかりで、非常に盛りだくさんな内容なのが凄いのですが、その中でも拙作はやや軽めの作風なので、好対照で面白いかもしれません。
曲は二重合唱で、二つの合唱が対話したり、音響的にも楽しめるように工夫しています。子供心を表現する詩の魅力(宮本苑生)が伝わるような、そんな演奏にしたいと思っています。
平日ではありますが、横浜近辺の方はぜひ、お越しください。

それにしても本年は、嬉しいことに思いがけず初演の多い年になりました。国民文化祭(11/7)でもヴォア・ヴェールで拙作を初演予定です。この紹介はまた後ほど。

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October 22, 2009

暗譜について

今年私が初演する団体は、おしなべて皆さん「暗譜します」と言って頂いたのですが、私の方から「暗譜しなくて良いですよ」というように言っています。
おかげで全部譜持ちのステージになりました。

暗譜という文化は、個人的には決して音楽レベルを上げることにならない、と思っています。
どちらかというと素人的な文化に感じます。もちろん、暗譜が演奏にもたらす効果も良く理解しているつもりですし、必要悪的な側面はあります。
ただし暗譜することが、よく練習したことの証であったり、努力したことの自己満足的な行為だとしたら、それはあまり意味のないことです。まあ、コンクール的には良いイメージを与えることは確かなのですが。

もちろん、器楽でもコンチェルトのソリストはたいてい暗譜だし、オペラは当然のごとく暗譜、歌曲を歌う歌手もほとんど暗譜です。当然彼らは、非常に時間をかけて練習していて、恐らく暗譜をしようと思うまでもなく頭に入ってしまっているのだと思います。
しかし、オーケストラは暗譜しませんし、指揮者もたいていの場合は暗譜しません。
ヴィルトゥオーソではないプロで、短時間に多くの曲をこなし、常に楽譜を読みながら、指揮者の指示通りに演奏する立場の人たちはたいてい暗譜しません。

素人の暗譜は暗記を意味します。
そして、暗記は考える力を剥奪します。
音楽は生モノで、二度と同じ演奏はあり得ないはずなのですが、世の(コンクールを中心とした)合唱演奏では、何度演奏しても同じになるようなテープレコーダ的なものがとても多いように感じます。これは練習回数を重ねることが、逆に音楽のライブ感を失なわせてしまう悪しき兆候です。
私はこのような演奏と暗譜はつねに一心同体にあるような、そんな気がしてしまうのです。

とはいえ、合唱団員全体の士気を上げ、曲に対する集中度を無理矢理高めるためには暗譜は確かに有効な手段ではあります。その効能と、悪い面とをバランスを考えて選択することが必要です。
私はある程度の力のある合唱団が新作初演をするのなら、譜持ちで臨みたいと考えます。

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October 18, 2009

我流、指揮法 ─ 毎回同じ指揮であるべきか?

同じ曲なのに、振る度に指揮が違うってことは悪いことでしょうか?
真面目に考えるほど、この結論を単純に出すことは難しいはずです。振る度に指揮が違うのは、アマチュアの歌い手にとっては一般的に良いことでは無いですが、必ずしも悪いとは言い切れません。では、何が悪くて、何が良いのでしょう?

そもそも合唱の世界で、振る度に指揮が違う、というのはたいていの場合、指揮者の力量欠如が原因と思われます。前回言った、制御している感じの弱い指揮というのは、拍やビートが不明瞭で、そもそも指揮者が作りたい音楽を棒のみで指示出来ていない状態を言っているのですが、結局そういう指揮者の元では、歌い手は指揮者の動きそのものを記憶して歌うようになります。だから、その指揮者がちょっと振り方を変えると、歌い手が混乱してしまうわけです。
逆に、指揮そのものが十分明瞭であれば、振り方が変わったとしても歌い手は付いてくることが出来ます。どの程度なら明瞭か、というのは感じ方が人それぞれでしょうが、指揮が明瞭でないほど、振る度に違う指揮は罪が深いということは確かでしょう。

とは言え、音楽は生モノです。歌うメンバーや場所、時間や天気によってさえ、音楽は変わる可能性があります。そういったライブ感は、演奏者側にもその時にしか出来ないノリを生じさせます。
それを否定してしまうと、音楽そのものが硬直し、柔軟性を欠いたものになります。
であれば、テンポ感やフェルマータの長さ、フレーズのため具合等の指示が、振る度に変わっても良いのではないでしょうか。
もちろん、そういったその場でしか出来ないノリを楽しむことは、その場のノリで適当にやっても問題無いという免罪符であってはならないわけで、そのためには、指揮者も歌い手もそれ相応の技倆が必要です。
振る度に違う、ということを肯定しながらも、他人が付いてこれなければ意味がない、ということを肝に銘じて指揮をしようと思います。

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October 12, 2009

我流、指揮法 ─ 制御する感じ

あまり、日々の出来事を書かないブログですが、たまにはネタ振りのために書いてみましょう。
昨日、静岡県の国民文化祭の練習が伊豆でありました。松下耕氏への委嘱作品を、県内の寄せ集め合唱団でオケ版で初演する予定ですが、昨日は初めてのオケ合わせの練習。
残念ながら昨日はテンポ合わせに終始する結果に。指導する松下耕さんもやや苛立っているように感じました。何とか、本番までにはうまく合うようになればいいのですが・・・

上記の合唱団は全体的に年配の方が多く、しかも合同練習の回数が少ないので、必ずしも音楽的な機動性が高くはありません。このような合唱団での練習は往々にして数をこなして、頭に叩き込むという練習になりがちです。
昨日の練習においては、本番の指揮者&オーケストラ伴奏で、日頃聞き慣れない音響と、テンポ感についていけなかったというのが真相でしょう。
ですから、本質的にこの問題は、演奏者の現場での柔軟性が問われているわけです。そしてそういった柔軟性とは、反復練習で頭に叩き込むやり方と一線を画すものでもあります。

演奏者が指揮に追従できる柔軟性を持つにはどうしたら良いでしょう?
指導者は反復練習で歌えるようになる、ということに甘えてはいけないと思います。常に、指揮者が団の音楽全体を掌握し、歌い手が指揮を見ずにはいられない状況を作らねばなりません。
演奏者が指揮者を見ないのは、見るに値しない指揮をしているからかもしれません。
指揮が常に音楽全体を掌握し、制御している感じを醸し出さないと、演奏者は指揮者を単にキュー出し係としか思わなくなるでしょう。

そのためには、テンポ感はもちもろんのこと、各パートの出だし指示、フェルマータの入りと切り、リタルダンドの分割、パウゼを止める時間、こういったもの全体に細やかな配慮と、決然とした明瞭な指示が必要です。
細かい指示が不明瞭だと、いつか演奏者は指揮者を見なくなります。
指導に関わったものとして自戒の念も込めつつ、昨日はそんなことを感じていました・・・

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October 10, 2009

我流、指揮法 ─ 右手と左手

右手と左手をどう使い分けるか、について。
一般には右手で拍をきざみ、左手で表情を付けて、などと言われたりしますが、もちろんそうでなければいけないなんてわけがありません。結局ここでも、決まった方法など何もないわけです。
とはいえ、いつでも両手が左右対称に動いているのは、あまり効率的な指示とは言えないでしょう。

一つの曲にはいくつかの転換点があるはずです。
曲調が変わったり、テンポが変わったり、調が変わったりするようなタイミングです。
音楽的に大きな変化があったのなら、そこは大きな形を作って指示する必要があります。そういう意味で、両手がフル活動するタイミングはまさに、音楽の転換点にあると私は思っています。
rit.するとき、フェルマータから次のフレーズの出だしを指示するとき、暗い曲調から明るい曲調に転換するとき、この変化のときを両手で大きく示してあげるのです。
逆にそれ以外の箇所、つまりテンポも音量も表情も安定している状態では、右手で拍を打つ程度にしてあげたほうが良いと思います。

本来、指揮は必要最小限であるべき、というのが私の理想です。
ですから「振りすぎ」には、いつも注意すべきだと心がけているのですが、ついつい気持ちが入ると私も大きく身体が動いてしまいます。
しかし、安定した箇所で振りが大きくなれば、変化の指示にとっておくべき大きな指揮表現が効果的でなくなってしまいます。ですから、どんなにアップテンポでもフォルテシモでも、音楽が安定している状況ではなるべく振りを大きくしないようにしたいものです。
そもそも表現過多な指揮者というのは、私はあまり好みではないのです。まあ一般には、汗を飛び散らせながら、指揮台の上で飛び跳ねたりする熱い指揮ぶりが礼賛される傾向にありますけれど。

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October 07, 2009

我流、指揮法

指揮というのはセオリーがあるようでいて、方法論はあまり明文化されていません。逆に教科書的なやり方では現場での柔軟な対応が出来ない、とても厄介な技術です。指揮の説得力にはどうしても人格的な要素が入り込んでしまい、それが純粋な技術論を見えにくくしている原因であるようにも思えます。
とはいえ、棒のテクニックだけでもより明瞭な指示は出来るはずです。私が意識していることなど、ちょっと書いてみましょう。

まずはテンポによる図形の描き方の違い。
斎藤メソドによる用語を使うと、テンポが遅い順に
 平均運動→しゃくい→たたき→直接運動
というような図形を描きます。
平均運動とは、例えば三拍子なら、三角形をゆっくり等速運動で描きます。打点(拍の頭の音が出る位置)は三角形の頂点ではなく、辺の中間あたりにある感じです。これで緊張感のあるレガートを拍を分割せずに表現できます。
しゃくいとは、振り子の運動のような動き。打点は一番速度が速いところになります。平均運動よりテンポが速くなり、ゆったりした中庸のテンポに利用できる最も一般的な振り方と言えるでしょう。
たたきは文字通り、叩いたときの運動です。しゃくいの振り子運動が鋭角的になった感じ。当然打点は叩いて跳ね返った点になります。快活なテンポを表現するのに向いています。
直接運動は、例えば三拍子なら、各頂点を瞬間的に移動させ、頂点で棒を止めるような振り方。棒が動き終えた瞬間が打点です。テンポが非常に速く、一定であるときに使います。

中庸なテンポなら誰でも振りやすいのですが、テンポが遅いとき、及び速いときは、指揮の技術が試されます。
テンポが遅いとき、棒が止まってしまうと次の打点が予測できずに歌いづらくなります。従って、平均運動でなるべく棒が止まらないようにする必要があります。
また、テンポが速いとき、たたきだと非常に動きが多くなり、せわしない感じになります。これもテンポが明瞭でない原因になりますが、直接運動だと、コンパクトに明瞭なテンポを示すことが可能になるのです。

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August 31, 2009

絶対美では無く・・・

お客様に喜んでもらう、とはどういうことでしょうか?
もちろん、一般的な意味において誰も否定はしないこととは思いますが、私には多くのアマチュア合唱愛好家は、理想的な絶対美のようなものを信仰していて、それを追い求めることこそ崇高な行為だと思っているように感じられます。
それは果てしなく険しい道です。だからこそ、求めがいもあるとも言えます。
しかし、そうやって追い求めている音像は、理想的であるからこそなお遠く、真理を求める苦行僧がごとく、知らないうちに追い求める行為そのものが目的化してしまうのです。

ほとんどの人にとって、興味の対象は発声です。発声の絶対的な美しさを追い求めることこそが、合唱活動の永遠の課題であるかのようです。
しかし、音楽の多面的な楽しみからすれば、それはわずか一面に過ぎないと私は思います。そのような芸術観の視野の狭さこそが問題では無いでしょうか。

自分の求めていることとお客が求めていることが違うと、お客の音楽的レベルを過小評価することがあります。自分たちが日々練習でやっていることをお客は知らないと思うからです。しかし、それはほとんどの場合、単に需要と供給が成り立っていないのであって、もう少しくだけて言えば、お客様に喜んでもらうような演奏をしていないのだと思います。
では、本当にお客様が楽しいと思うことは何なのか。
一般には、知っている曲を聴くと楽しいと考えると思いますが、これはそんなに単純なものではありません。難しい曲だから、お客様が喜ばないのではなく、その曲の良さを伝えていないからお客様が喜ばないということは無いですか。
お客は実は啓蒙されたがっているのかもしれません。自分の知らない世界の面白さを垣間見せてくれるような演奏をこそ、望んでいるのではないでしょうか。

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August 27, 2009

指揮者というお仕事

私自身は合唱指揮者として活動できるほどの人徳は無いので、基本的には指揮ではなく作曲家として活躍したい、と考えていますが、今回の東北大の演奏では思いがけず、初演の指揮を務めることになりました。
こんな経験初めて・・・と、思ったら数年前、浜松ラヴィアンクールの演奏会で自作曲を振ったことを思い出しました。まあ、あれは地元だったし、それほど気負いはなかったわけですが。

でも実際やると他団体の指揮は結構面白いんですよね〜。
毎週会うメンバーで無くて、月に一度くらいのペースでの指導というのは、それなりに緊張感があるし、食いついてくる感じもかなり違う。今回は大学生っていうのもあったけれど、打てば響くような快感の中で指導をしていました。
もちろん、それなりの責任があるわけですし、確実に演奏の質を高めるような指導で無くてはなりません。まだまだ私自身反省すべき点はありますが、何となく客演指揮者としての自分のペースというのが掴めてきたような気がしています。

私の指揮で歌った方は感じると思いますが、私は聴いたお客さんがどのように感じるか、ということを徹底的に意識します。私の中で「仮想客」という像を定義し、彼が喜ぶにはどのようにしたら良いかを考えるのです。
「仮想客」は、演奏会なのか、コンクールなのかによって、質が若干変わります。だから、どこで演奏するかで演奏の内容も変わります(これについては否定的な意見の方もいると思います)。
それから最近は、日本語のディクションに非常に拘っています。ほとんどの合唱団の演奏で、日本語がきちんと聞こえないと常々感じているからです。練習中場合によっては、音素単位まで分解して、一つ一つの子音や母音の出し方まで言及します。やや、細かすぎて辟易とされた方もいるかもしれません。
あと、音という物理現象を理系的語彙で表現します。まさか、合唱の練習で微分、積分が応用されるとは思いもよらないでしょう。ヴォア・ヴェールでは、気が遠くなっていた人もいましたが。

まあ、こんな指導でよろしければ指揮をするのはやぶさかではございません。
実は、11月にも横浜にて女声合唱団の本番の指揮をすることになっています。もちろん拙作の初演です。詳細はまた追ってお知らせ致します。

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