November 11, 2009
前々回ご紹介したように、伊豆で開催された国民文化祭に参加しました。久しぶりに合唱ずくめの週末を過ごしました。せっかくですので、簡単にご報告いたしましょう。
土曜日はヴォア・ヴェールの単独ステージ。なぜか体調不良者が続出し、5人落ち状態で本番に臨むことに。もともと曲の内容も決して明るくなかったせいもあり、十分に会場を鳴らせなかったような気がします。お客さんから見ると少々しょぼくれた演奏に聞こえてしまったかも。
私としては、今できるレベルの演奏は何とか出来たかなとは思いますが、今後はもっと根本的に印象深い響きを作っていくべきと感じました。
2日間を通して松下耕さんの委嘱作の練習が何度も行われました。なかなか反応の悪い大人数合唱相手に高いテンションで導いていく松下さんの指導に感心。
作詩をされた山崎佳代子さんから、詩に対する思いを聞けたのは大変良い機会でした。合唱活動をしていると、自分とは決して交わらない世界と交錯することがあります。そういう貴重な体験の一つになりました。
練習中、松下耕さんから「もっと多くの作曲家の方に取り上げてもらって、広く歌われるべき詩です。ね、長谷部さん」と思わずネタにされ、山崎さんとも直接お話などさせて頂いたおかげで、何か来たるべき作品の予感がしてきました・・・後は、作曲の依頼だけです。
今回は自前のステージと、委嘱作の練習のおかげでついに他団体を一つも聴けませんでした。ママさん系が多かったようですが、かなりの高レベルの演奏もあったようですので、ちょっと残念。
国民文化祭自体のあり方にはいろいろ思うところもあるものの、団全体でのバスツアー、大交流会、温泉、と個人的には伊豆旅行を十分満喫してしまったのでした。
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November 04, 2009
11/7,8に伊豆の国市アクシスかつらぎ大ホールで行われる合唱の祭典に参加します。
今回歌うのは、ヴォア・ヴェールの単独ステージとして、拙作「辞世九首」の全曲初演を、そして静岡県内の合同合唱団として松下耕委嘱の「瑠璃色の空の下で」と、混声合唱とオーケストラのためのカンタータ「水脈速み(みおはやみ)」の二作品を演奏します。よく考えれば全部初演ものですね。
「辞世九首」は日本史の9人の有名人の辞世の句に曲を付けたもの。一つ一つの曲は短く、9曲演奏しても12分程度です。有名な句も多いので、いくつかは知っている方もいると思います。歴史好きなら興味深い作品だと思いますので、お楽しみに。指揮は私。
「水脈速み」は山崎佳代子氏の詩によります。旧ユーゴの内戦を描いた反戦歌とも呼ぶべき内容で、なかなか重いテーマです。合唱表現30号でもこの曲について紹介されています。
この曲をオーケストラ伴奏で200人近い合唱で演奏いたします。指揮は松下耕氏。
同じ静岡県とは言え、伊豆はほとんど遠征と呼んでいい距離。早朝からのバスツアーでしんどい二日間になりそう。
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October 25, 2009
そう言えば、まだお知らせしていませんでした。
11月17日(火)に、横浜のみなとみらいホールにて、アンサンブルMoraの演奏会があります。この演奏会で、拙作、二群の女声合唱のための組曲「へんしん」が初演されます。もう8年前に作曲した曲ですが、このたびようやく演奏できることになりました。
アンサンブルMoraは小田原少年少女合唱隊等でおなじみの桑原先生が指導している団体。やや年齢構成は高いですが(^^;、各メンバーの音楽的力量はなかなかのものです。
桑原先生がいるにも関わらず、なぜか客演指揮ということで、私が初演の指揮を務めることになり、何回か練習にお邪魔しているところです。
演奏会は全体で6ステージ。しかもハードなレパばかりで、非常に盛りだくさんな内容なのが凄いのですが、その中でも拙作はやや軽めの作風なので、好対照で面白いかもしれません。
曲は二重合唱で、二つの合唱が対話したり、音響的にも楽しめるように工夫しています。子供心を表現する詩の魅力(宮本苑生)が伝わるような、そんな演奏にしたいと思っています。
平日ではありますが、横浜近辺の方はぜひ、お越しください。
それにしても本年は、嬉しいことに思いがけず初演の多い年になりました。国民文化祭(11/7)でもヴォア・ヴェールで拙作を初演予定です。この紹介はまた後ほど。
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October 22, 2009
今年私が初演する団体は、おしなべて皆さん「暗譜します」と言って頂いたのですが、私の方から「暗譜しなくて良いですよ」というように言っています。
おかげで全部譜持ちのステージになりました。
暗譜という文化は、個人的には決して音楽レベルを上げることにならない、と思っています。
どちらかというと素人的な文化に感じます。もちろん、暗譜が演奏にもたらす効果も良く理解しているつもりですし、必要悪的な側面はあります。
ただし暗譜することが、よく練習したことの証であったり、努力したことの自己満足的な行為だとしたら、それはあまり意味のないことです。まあ、コンクール的には良いイメージを与えることは確かなのですが。
もちろん、器楽でもコンチェルトのソリストはたいてい暗譜だし、オペラは当然のごとく暗譜、歌曲を歌う歌手もほとんど暗譜です。当然彼らは、非常に時間をかけて練習していて、恐らく暗譜をしようと思うまでもなく頭に入ってしまっているのだと思います。
しかし、オーケストラは暗譜しませんし、指揮者もたいていの場合は暗譜しません。
ヴィルトゥオーソではないプロで、短時間に多くの曲をこなし、常に楽譜を読みながら、指揮者の指示通りに演奏する立場の人たちはたいてい暗譜しません。
素人の暗譜は暗記を意味します。
そして、暗記は考える力を剥奪します。
音楽は生モノで、二度と同じ演奏はあり得ないはずなのですが、世の(コンクールを中心とした)合唱演奏では、何度演奏しても同じになるようなテープレコーダ的なものがとても多いように感じます。これは練習回数を重ねることが、逆に音楽のライブ感を失なわせてしまう悪しき兆候です。
私はこのような演奏と暗譜はつねに一心同体にあるような、そんな気がしてしまうのです。
とはいえ、合唱団員全体の士気を上げ、曲に対する集中度を無理矢理高めるためには暗譜は確かに有効な手段ではあります。その効能と、悪い面とをバランスを考えて選択することが必要です。
私はある程度の力のある合唱団が新作初演をするのなら、譜持ちで臨みたいと考えます。
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October 18, 2009
同じ曲なのに、振る度に指揮が違うってことは悪いことでしょうか?
真面目に考えるほど、この結論を単純に出すことは難しいはずです。振る度に指揮が違うのは、アマチュアの歌い手にとっては一般的に良いことでは無いですが、必ずしも悪いとは言い切れません。では、何が悪くて、何が良いのでしょう?
そもそも合唱の世界で、振る度に指揮が違う、というのはたいていの場合、指揮者の力量欠如が原因と思われます。前回言った、制御している感じの弱い指揮というのは、拍やビートが不明瞭で、そもそも指揮者が作りたい音楽を棒のみで指示出来ていない状態を言っているのですが、結局そういう指揮者の元では、歌い手は指揮者の動きそのものを記憶して歌うようになります。だから、その指揮者がちょっと振り方を変えると、歌い手が混乱してしまうわけです。
逆に、指揮そのものが十分明瞭であれば、振り方が変わったとしても歌い手は付いてくることが出来ます。どの程度なら明瞭か、というのは感じ方が人それぞれでしょうが、指揮が明瞭でないほど、振る度に違う指揮は罪が深いということは確かでしょう。
とは言え、音楽は生モノです。歌うメンバーや場所、時間や天気によってさえ、音楽は変わる可能性があります。そういったライブ感は、演奏者側にもその時にしか出来ないノリを生じさせます。
それを否定してしまうと、音楽そのものが硬直し、柔軟性を欠いたものになります。
であれば、テンポ感やフェルマータの長さ、フレーズのため具合等の指示が、振る度に変わっても良いのではないでしょうか。
もちろん、そういったその場でしか出来ないノリを楽しむことは、その場のノリで適当にやっても問題無いという免罪符であってはならないわけで、そのためには、指揮者も歌い手もそれ相応の技倆が必要です。
振る度に違う、ということを肯定しながらも、他人が付いてこれなければ意味がない、ということを肝に銘じて指揮をしようと思います。
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October 12, 2009
あまり、日々の出来事を書かないブログですが、たまにはネタ振りのために書いてみましょう。
昨日、静岡県の国民文化祭の練習が伊豆でありました。松下耕氏への委嘱作品を、県内の寄せ集め合唱団でオケ版で初演する予定ですが、昨日は初めてのオケ合わせの練習。
残念ながら昨日はテンポ合わせに終始する結果に。指導する松下耕さんもやや苛立っているように感じました。何とか、本番までにはうまく合うようになればいいのですが・・・
上記の合唱団は全体的に年配の方が多く、しかも合同練習の回数が少ないので、必ずしも音楽的な機動性が高くはありません。このような合唱団での練習は往々にして数をこなして、頭に叩き込むという練習になりがちです。
昨日の練習においては、本番の指揮者&オーケストラ伴奏で、日頃聞き慣れない音響と、テンポ感についていけなかったというのが真相でしょう。
ですから、本質的にこの問題は、演奏者の現場での柔軟性が問われているわけです。そしてそういった柔軟性とは、反復練習で頭に叩き込むやり方と一線を画すものでもあります。
演奏者が指揮に追従できる柔軟性を持つにはどうしたら良いでしょう?
指導者は反復練習で歌えるようになる、ということに甘えてはいけないと思います。常に、指揮者が団の音楽全体を掌握し、歌い手が指揮を見ずにはいられない状況を作らねばなりません。
演奏者が指揮者を見ないのは、見るに値しない指揮をしているからかもしれません。
指揮が常に音楽全体を掌握し、制御している感じを醸し出さないと、演奏者は指揮者を単にキュー出し係としか思わなくなるでしょう。
そのためには、テンポ感はもちもろんのこと、各パートの出だし指示、フェルマータの入りと切り、リタルダンドの分割、パウゼを止める時間、こういったもの全体に細やかな配慮と、決然とした明瞭な指示が必要です。
細かい指示が不明瞭だと、いつか演奏者は指揮者を見なくなります。
指導に関わったものとして自戒の念も込めつつ、昨日はそんなことを感じていました・・・
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October 10, 2009
右手と左手をどう使い分けるか、について。
一般には右手で拍をきざみ、左手で表情を付けて、などと言われたりしますが、もちろんそうでなければいけないなんてわけがありません。結局ここでも、決まった方法など何もないわけです。
とはいえ、いつでも両手が左右対称に動いているのは、あまり効率的な指示とは言えないでしょう。
一つの曲にはいくつかの転換点があるはずです。
曲調が変わったり、テンポが変わったり、調が変わったりするようなタイミングです。
音楽的に大きな変化があったのなら、そこは大きな形を作って指示する必要があります。そういう意味で、両手がフル活動するタイミングはまさに、音楽の転換点にあると私は思っています。
rit.するとき、フェルマータから次のフレーズの出だしを指示するとき、暗い曲調から明るい曲調に転換するとき、この変化のときを両手で大きく示してあげるのです。
逆にそれ以外の箇所、つまりテンポも音量も表情も安定している状態では、右手で拍を打つ程度にしてあげたほうが良いと思います。
本来、指揮は必要最小限であるべき、というのが私の理想です。
ですから「振りすぎ」には、いつも注意すべきだと心がけているのですが、ついつい気持ちが入ると私も大きく身体が動いてしまいます。
しかし、安定した箇所で振りが大きくなれば、変化の指示にとっておくべき大きな指揮表現が効果的でなくなってしまいます。ですから、どんなにアップテンポでもフォルテシモでも、音楽が安定している状況ではなるべく振りを大きくしないようにしたいものです。
そもそも表現過多な指揮者というのは、私はあまり好みではないのです。まあ一般には、汗を飛び散らせながら、指揮台の上で飛び跳ねたりする熱い指揮ぶりが礼賛される傾向にありますけれど。
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October 07, 2009
指揮というのはセオリーがあるようでいて、方法論はあまり明文化されていません。逆に教科書的なやり方では現場での柔軟な対応が出来ない、とても厄介な技術です。指揮の説得力にはどうしても人格的な要素が入り込んでしまい、それが純粋な技術論を見えにくくしている原因であるようにも思えます。
とはいえ、棒のテクニックだけでもより明瞭な指示は出来るはずです。私が意識していることなど、ちょっと書いてみましょう。
まずはテンポによる図形の描き方の違い。
斎藤メソドによる用語を使うと、テンポが遅い順に
平均運動→しゃくい→たたき→直接運動
というような図形を描きます。
平均運動とは、例えば三拍子なら、三角形をゆっくり等速運動で描きます。打点(拍の頭の音が出る位置)は三角形の頂点ではなく、辺の中間あたりにある感じです。これで緊張感のあるレガートを拍を分割せずに表現できます。
しゃくいとは、振り子の運動のような動き。打点は一番速度が速いところになります。平均運動よりテンポが速くなり、ゆったりした中庸のテンポに利用できる最も一般的な振り方と言えるでしょう。
たたきは文字通り、叩いたときの運動です。しゃくいの振り子運動が鋭角的になった感じ。当然打点は叩いて跳ね返った点になります。快活なテンポを表現するのに向いています。
直接運動は、例えば三拍子なら、各頂点を瞬間的に移動させ、頂点で棒を止めるような振り方。棒が動き終えた瞬間が打点です。テンポが非常に速く、一定であるときに使います。
中庸なテンポなら誰でも振りやすいのですが、テンポが遅いとき、及び速いときは、指揮の技術が試されます。
テンポが遅いとき、棒が止まってしまうと次の打点が予測できずに歌いづらくなります。従って、平均運動でなるべく棒が止まらないようにする必要があります。
また、テンポが速いとき、たたきだと非常に動きが多くなり、せわしない感じになります。これもテンポが明瞭でない原因になりますが、直接運動だと、コンパクトに明瞭なテンポを示すことが可能になるのです。
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August 31, 2009
お客様に喜んでもらう、とはどういうことでしょうか?
もちろん、一般的な意味において誰も否定はしないこととは思いますが、私には多くのアマチュア合唱愛好家は、理想的な絶対美のようなものを信仰していて、それを追い求めることこそ崇高な行為だと思っているように感じられます。
それは果てしなく険しい道です。だからこそ、求めがいもあるとも言えます。
しかし、そうやって追い求めている音像は、理想的であるからこそなお遠く、真理を求める苦行僧がごとく、知らないうちに追い求める行為そのものが目的化してしまうのです。
ほとんどの人にとって、興味の対象は発声です。発声の絶対的な美しさを追い求めることこそが、合唱活動の永遠の課題であるかのようです。
しかし、音楽の多面的な楽しみからすれば、それはわずか一面に過ぎないと私は思います。そのような芸術観の視野の狭さこそが問題では無いでしょうか。
自分の求めていることとお客が求めていることが違うと、お客の音楽的レベルを過小評価することがあります。自分たちが日々練習でやっていることをお客は知らないと思うからです。しかし、それはほとんどの場合、単に需要と供給が成り立っていないのであって、もう少しくだけて言えば、お客様に喜んでもらうような演奏をしていないのだと思います。
では、本当にお客様が楽しいと思うことは何なのか。
一般には、知っている曲を聴くと楽しいと考えると思いますが、これはそんなに単純なものではありません。難しい曲だから、お客様が喜ばないのではなく、その曲の良さを伝えていないからお客様が喜ばないということは無いですか。
お客は実は啓蒙されたがっているのかもしれません。自分の知らない世界の面白さを垣間見せてくれるような演奏をこそ、望んでいるのではないでしょうか。
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August 27, 2009
私自身は合唱指揮者として活動できるほどの人徳は無いので、基本的には指揮ではなく作曲家として活躍したい、と考えていますが、今回の東北大の演奏では思いがけず、初演の指揮を務めることになりました。
こんな経験初めて・・・と、思ったら数年前、浜松ラヴィアンクールの演奏会で自作曲を振ったことを思い出しました。まあ、あれは地元だったし、それほど気負いはなかったわけですが。
でも実際やると他団体の指揮は結構面白いんですよね〜。
毎週会うメンバーで無くて、月に一度くらいのペースでの指導というのは、それなりに緊張感があるし、食いついてくる感じもかなり違う。今回は大学生っていうのもあったけれど、打てば響くような快感の中で指導をしていました。
もちろん、それなりの責任があるわけですし、確実に演奏の質を高めるような指導で無くてはなりません。まだまだ私自身反省すべき点はありますが、何となく客演指揮者としての自分のペースというのが掴めてきたような気がしています。
私の指揮で歌った方は感じると思いますが、私は聴いたお客さんがどのように感じるか、ということを徹底的に意識します。私の中で「仮想客」という像を定義し、彼が喜ぶにはどのようにしたら良いかを考えるのです。
「仮想客」は、演奏会なのか、コンクールなのかによって、質が若干変わります。だから、どこで演奏するかで演奏の内容も変わります(これについては否定的な意見の方もいると思います)。
それから最近は、日本語のディクションに非常に拘っています。ほとんどの合唱団の演奏で、日本語がきちんと聞こえないと常々感じているからです。練習中場合によっては、音素単位まで分解して、一つ一つの子音や母音の出し方まで言及します。やや、細かすぎて辟易とされた方もいるかもしれません。
あと、音という物理現象を理系的語彙で表現します。まさか、合唱の練習で微分、積分が応用されるとは思いもよらないでしょう。ヴォア・ヴェールでは、気が遠くなっていた人もいましたが。
まあ、こんな指導でよろしければ指揮をするのはやぶさかではございません。
実は、11月にも横浜にて女声合唱団の本番の指揮をすることになっています。もちろん拙作の初演です。詳細はまた追ってお知らせ致します。
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July 13, 2009
昨日、「COMPACT MESSIAH」と題して、ムジカチェレステによるメサイアの演奏会を遠州栄光教会にて開催しました。たくさんのお客様に来て頂きました。あらためて、ご来場御礼申し上げます。
今回の演奏会の特徴は、何と言ってもあの大曲メサイアを10人で歌った、ということです。そのため、伴奏はチェンバロ一台のみ(ローランドの電子チェンバロC-30を使用)。
曲は抜粋で、全曲の約半分ほどを選び、ソロも自分たちで歌いました。
一見無謀に感じるかもしれませんが、メサイアの対位法的な楽曲は少人数アンサンブルでこそ、曲の構造が明瞭になり、また旋律の絡みが強調されるようにも感じます。
もともと、バロック時代にそれほどの大人数で歌っていたとも思えないので、巷で開催される大規模なメサイアの演奏会と違った、別の魅力を表現出来たのではないかと自負しております。
まあ、小さな(?)事故はいろいろありましたが、お客様にも楽しんで頂けたようです。自分で言うのもなんですが、今回の演奏会はなかなか面白い企画だったのではないでしょうか。
今回のチラシはこちら。
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May 09, 2009
何しろ母音の色は5つしか無い、なんてことは無いのです。言葉によって、文脈によって、そのときの表現の仕方によって、常に発音は変化するはずだし、それを前提に音楽作りをすべきです。
ところが長い間合唱をやっていると、何となく自分が歌う音色が凝り固まってきて、どんな言葉を歌っても、決まりきった発音になりがちです。こういうのはボイトレとかやっても、発音記号としての母音の練習しかしないので、言葉の中の発音というのがどうしてもおざなりになってしまいます。
言葉が浮き立ってこないのは、母音の色の変化の弱さに起因しているのだと思います。変化を付けようとするなら、言葉を何度も反芻して抑揚や音色をきっちり意識するしかありません。
そのために歌詞を一度、話し言葉の発音に立ち戻って、皆で朗読をする、というのは一定の効果はあると思います。さらにその後、リズム読みして、テンポの中で言葉を作っていくとなお良いでしょう。
しかし、学生ならそういった練習もある程度やり易いだろうけど(国語の先生も居そうだし)、なかなか大人にきちんと朗読させるのは難しいかもしれませんね。そもそも、朗読そのものが下手なので、何を練習しているのかわからなくなりそうです。
ただ、昨今の日本の合唱では、均一な音色で、むらなく均等に響かせることを良しとする価値観がやや強いと感じます。宗教曲などはそういう価値観はある程度必要なのですが、同じ歌い方で日本の曲を歌うと抑揚の無い無表情な演奏になってしまいます。
日本人だからこそ日本語の言葉の強さをもう一度再確認し、その強さをそのまま歌にして表現したいのです。逆に今は、日本人だからテキスト読めばわかるじゃん、になっていないでしょうか。
私には、アマチュア合唱では、発声より発音のほうがよほど重要じゃないかという気がしているのですが・・・。
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April 27, 2009
日本語の三大特殊音韻ということで「長音」「促音」と来れば、最後は「撥音」にも触れずにはいられないでしょう。
「撥音」とは「ん」のこと。これも合唱をやっていると、いろいろ気になることがあります。
一つの音符に「ん」が与えられる場合など、鳴りが弱くなってなかなかきれいな旋律になりません。逆に一つの音符に「あん」のように撥音付きの音節が書かれていると、どのタイミングで「ん」にしたら良いのか迷ったりします。
これももちろん正解なんて無くて、練習の中でどう歌ったら最も日本語としてきちんと聞こえるのか、という判断基準で考えていくしかないのだと思います。
作曲する立場からいうと「ん」だけに一音符を与える場合と、与えない場合の違いは、本当に微妙な差だけれど、歌い手に感じて欲しいと思います。
例えば「何千年という年月・・・」という詩があったとします。(まあ、実際に作曲したんですが)
最初の「何千年」に6つ音符を書いて「なんぜんねん」を割り当てるか、あるいは3つ音符を書いて、下に「何 千 年」と書くか(ひらがなで「なん ぜん ねん」でもいいですが)、その書き方によって演奏の効果が若干変わってくるはずです。
当然、日本語としての自然な感じは後者になると思われます。が、その分メロディは言語の束縛を強く受けることになるでしょう。逆に、音符が細かく(音価が小さく)メロディの運動量が大きかったりする場合には、前者のほうが向いているように思われます。
そういった音楽のイメージの違いによって作曲者は撥音への音符の割当を変えていますし、撥音の割り当て方にも作曲家によって差が出ています。そのような視点で楽譜を見ると、その作曲家が何を大事にそういう判断を下しているかも何となく分かってきます。そして、その作曲家の日本語に対するスタンスも何となく理解できてくるのではないでしょうか。
ちなみに昨今のJ-POPでは、細かい音符であるのにも関わらず、一音符に「なん」「ぜん」「ねん」を突っ込んでしまう歌詞割りが増えています。ラップ調のようなヒップホップ系なんて、わざとそういう割り振り方をしたりしているように思えます。
これは、日本語をやや外国語っぽく感じさせる効果があり、若者にはクールに感じられるのでしょう。年配の方は眉をひそめそうですが、意外とこういった歌詞割りが、日本語の今後の変化の方向を暗示しているのかもしれません。
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April 21, 2009
長音のことを書いたので、促音についても思うことなど書いてみましょう。
促音とは「っ」のこと。音が一瞬消える詰まる音のことですが、これは外国語の子音が二つあるような場合(-kk-とか、-tt-といった綴り)と一見近いように思われます。事実、促音をローマ字表記する場合、同じ子音を二つ繋げて書きますね。
しかし、小さい「っ」は、欧米系の言語の詰まった音より確実に詰まる時間が長いというのが特徴だと思われます。他の音節の長さと同等の感覚(モーラ)があるからです。従って、歌の中でも外国語よりもかなり明瞭に音が切れることになるわけです。
しかし、私の思うに多くの合唱団の歌の促音は詰まり過ぎではないかと思っています。
なぜ多くの人が必要以上に詰まるかというと、しゃべり言葉と同じように歌ってしまっているからと感じます。音が切れている時間をもっと短くした方が、言葉も明瞭になるし、ボリューム感も増します。何より、メロディの流れが良くなると思います。
歌なのだから、もう少し時間方向に冗長にする必要があります。例えば、「振りかえって」という歌詞があったら「えっ」という場所で、「えーっ」のように少しだけ「え」の長さを延ばしてあげるのです。このほうが音楽として私には自然に感じます。
その他にも、促音を歌うとき、どのように切って、どのように次の音節を歌いだすのか、この辺りもセンスの差が出るところでしょう。たいていは、息の流れを止めて促音を表現してしまいますが、なるべく息の流れを止めないで、音の鳴りの制限だけで促音を表現した方がきれいな歌になるのではないかと思います。
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April 14, 2009
よもや、私からこんなベタな題材が上がろうとは・・・。
とはいえ、日本の合唱風景を語るのにこの曲の存在は欠かせません。ならば、この音楽の特性について考察しておくのも何かしら意味があることだろうと思われるのです。
それにしても、あらためてこの曲の音符をなぞってみると、その壮大なイメージとは裏腹に、非常にシンプルな作りであることに驚かされます。ピアノ伴奏も、ほぼ左手はオクターブ、右手は三和音の展開形の連打というパターン。合唱も基本はホモフォニックで、今どきなら十分平易な曲と言っていいでしょう。
しかし、そのような音楽上のシンプルさとは対照的に、宗教的とも言える荘厳な詩と、それに付けられた端正で力強いメロディ、そして愚直なまでに重々しいワンパターンな伴奏で奏でられたその楽想とが、見事に噛み合った希有な曲と言っていいのではないでしょうか。こんな曲は絶対狙って作れないと私には思われます。
その特徴をいくつか考えてみましょう。
この曲の大きな特徴の一つに、調の選択が挙げられます。ロ長調は、ある意味シンプルさからはほど遠い調と言えます。その分、日頃聞き慣れない斬新な響きを感じ、それが神秘感を醸し出します。
この曲がハ長調だったらどうでしょう。曲構造のシンプルさが逆にマイナスに向かってしまう気がします。和音が丸裸にされた恥ずかしさ、とでもいうような。
次に、シンプルであるが故に数少ないポリフォニーが良い効果を上げています。ベースの大好きな「ひとの子らー」とか、中盤の男声「われらーひとの子の」が女声と対比を成している部分など、音響的に分かり易いが故に、伝える力も強いのです。
あとは何と言っても、最後のフレーズの神秘的な和音展開。コードで書くとこんな感じでしょうか。
B -> G7/D -> C#m -> G#7/D# -> D -> F#7/C# -> B/D# -> E
この流れは私には非常に独創的に思えます。分数和音の低音の動きも絶妙。遠隔調への飛び方が、何度歌ってもゾクゾクとさせるほどの気持ちよさを感じさせてくれます。
シンプルであっても各要素のその絶妙なバランスが、多くの人の心をつかみ、そして名曲とさせているのだと思います。私には作曲する態度を真摯にさせてくれる、とても大切な曲のようにも思われるのです。
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April 09, 2009
昨年のNコンの課題曲「手紙」の演奏をちょっと聴いたとき、冒頭の「拝啓」という言葉の扱いが大変気になりました。
「はいけー」と「け」のe母音をそのまま延ばした歌い方が、どうも今ひとつ日本語としてきれいな感じがしなかったのです。じゃあ、「はいけい」と最後を明確に「い」と歌えば良いかというともちろんそれもおかしい。
恐らく、最も自然な音色は「え」でも「い」でもない、その中間にあるのだと思います。いかに言葉の響きとして自然か、という観点で歌おうとするならば、もっと母音の音色を柔軟に、そして微妙に変化させる必要が出てきます。
日本語にはこういった長音が結構多くて、合唱をやっているとその扱いに迷うことが多々あります。
「えい」は「えー」なのか「えい」なのか、「おう」は「おー」なのか「おう」なのか。練習では、ついつい「え」にしましょう、とか「い」にしましょう、とか明確に決めてしまうことも多いですが、でも本当はどちらでも無いどこかに最も気持ちの良い発音があるはずです。
同じ母音が完全に続く時でさえ(例えば「かあさん」の「かあ」とか)、単純に同じ母音を延ばすより、少し母音の色を変えた方が言葉の輪郭が出る場合があると思います。
もちろん長音の歌い方に正解なんて無いのでしょうが、それでも発音がてんでバラバラというわけにもいきません。前に立つ人が何らかの方向性を示して、ある美的価値観の元で統一していく必要はあるでしょう。
歌い手一人一人も、どういう母音の色の変化が日本語の歌として自然なのか、もっともっと考えながら歌って欲しいのです。そのように意識を高めていくだけでも随分、伝わる日本語の演奏になっていくと思います。
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April 03, 2009
言葉を伝えようとするなら、言葉の意味(シニフィエ)よりもまず、言葉そのものの音(シニフィアン)を伝える必要があると私は思っています。
しかし、多くの人は最初に意味に拘ってしまっているような気がするのです。この文章はこういう意味だから、こういう表情で歌いましょう、みたいなやり方。もちろん、それはマクロ的に見れば間違っていないのだけれど、ミクロ的に見れば、決していつでも正しいわけでは無いと思います。
それ以前に、ミクロ的にやるべきことは言葉の「音」をまず伝えることだと思うのです。
本来、意味を伝えるのは大変難しい作業です。曲の構造の解釈や、作品の持つ世界観を表現するのと同じレベルの話なのです。自分たちの演奏に一生懸命意味を込めたとしても、それが伝わらなければ独りよがりの演奏にしかなりません。
その難しさに気付かずに、意味だけにとても拘っているのはやや芸術的センスに欠けた行動に思えます。本来、芸術が伝えたいことは簡単に言語化出来ない微妙な感情だったり、イメージだったりするからです。それを「悲しい」とか「嬉しい」とかいうシンプルな意味に変換してしまうと、作品そのものの力が矮小化され、「悲しい」「嬉しい」の周辺にある形容し難い印象を消してしまうことになりかねません。
逆に言葉の音がきちんと伝わっているならば、意味は聴衆の脳の中で構築されます。まずは、その効果に頼るのです。その上で、曲全体から醸し出されるイメージが、聴衆の脳内で構築された意味を補強するものになれば、そこでようやく詩が持っている意味が何とか伝わったことになるのだと思います。
つまり言葉の意味はミクロ的(文章のような単位)に伝えるのではなく、マクロ的(テキスト全体の主張として)に伝えるべきなのです。
ですから、まず私たちは言葉の音そのものをきちんと表現すべきであり、きちんと聴き取れるような明瞭な発音と、日本語の持つ音色や音量の変化を演奏の中で実現する必要があるでしょう。
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March 27, 2009
やや音声解析的な話になりますが、同じ「あ」でも「か」の「あ」と「た」の「あ」は違います。
人間の耳がどうやって、音節を判断しているか、次のような実験をしてみます。「か」という音は「k」の子音部分と「a」の母音部分があるわけですが、「k」の破裂音を例えばホワイトノイズでマスキングして、被験者に聴いてもらいます。そうすると、不思議なことに「k」の成分は聞こえないはずなのに、聴いた人は「か」に聞こえるのです。
何となく「か」に聞こえるわけでなく、何もマスキングされてないときと同じように明瞭に「か」と聞こえるのです(自分が被験者になったので自信持って言えます)。
この原因は何かというと、人間が「か」という音節を認識するとき、「k」の子音部だけでなく、「k」と言ってから、「あ」にいたるまでの音色の変化を聴いていて、そこまで含めて「k」の子音と感じているのです。
これは専門用語で言えば、フォルマントの移動の仕方そのものが、子音の認識に影響しているということです。
このことを言葉を伝える技術に応用するのなら、子音のみを強調するだけでなく、子音と母音の連結部分をもっと強調すれば良いのでは、と言えると思います。
強調と言っても力で押すのでは無く、やや粘り気のある感じで、子音から母音への移行を緩慢にすれば良いのではないでしょうか。
歌は通常の話し言葉より、時間方向に冗長になります。だからこそ、発音のための口周辺の動きも通常の話し言葉より時間方向に引き延ばしてあげれば良い、という推論も成り立つと思います。
確かに優れた歌い手、特に演歌歌手などは、そんな傾向があるような気がします。演歌っぽく歌えというわけではないのですが、そういう部分で見習うべき点は十分あるのではないでしょうか。
このように理屈で考えると、ちょっと窮屈な印象を感じるかと思いますが、合唱の表現がどうしても淡白に感じるのは、発音の粘り気が足りないからではと最近感じているのです。
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March 07, 2009
ここのところ外国曲を振ることが多かったのですが、今年になってから日本語の曲ばかり扱うようになりました(というか、全部自分の作った楽譜ですが・・・)。
あらためて日本語で歌うことについて、いろいろ考えさせられます。
少なくとも私からみれば、ウチの団も、その他の多くの団も、日本語の抑揚が一様で、棒読みしているようにしか聴こえません。だから、言葉も良く伝わってこないし、そもそも伝えようとする意志が希薄に感じてしまうのです。もちろん、歌い手は練習に対して一生懸命取り組んでいるのだろうけれど、そもそも伝えるための工夫が足りないと私には思えます。
言葉を伝えるにはどうしたら良いでしょう?
残念ながら「もっと気持ちを込めて!」だけしか言わない指導者からは、良く伝わる日本語の歌は聴けないでしょう。言葉が伝わらないほとんどの場合は、伝えるスキルの低さに起因するものです。
単純に歌がうまい人、朗読がうまい人の日本語の扱い方を調べてみればすぐわかることです。うまい人を見て「気持ちが込もっている」程度の感想しか思い浮かばない人は、彼らの努力を想像することさえ出来ません。
言葉を伝えるにはまずいろいろな固定観念を疑う必要があります。
例えば、日本語には母音が五つしか無い、と単純に思っていませんか?そして、それを前提に日本語を扱っていませんか。
本当は母音の区切りが五つしか無いだけであって、同じ「あ」でも単語や文脈や音価などによって発音は異なって当たり前なのです。
そこを理解しないで「母音をはっきり」とだけ指導していると、下手な音声合成ロボットのような無表情な歌にしかならないのだと思います。
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March 01, 2009
今年は私にとってはめずらしく拙作の初演の多い年になりそうなのですが(先日の児童合唱曲初演もありました)、そのうちの一つ、大型委嘱作が私の古巣、東北大学混声合唱団の演奏会で8月に初演されます。
この演奏会にて、なんと私が自ら指揮して初演することになったのですが、今週末その初めての練習があり、彼らが合宿している盛岡まで行ってきました。
合宿なので、土曜の午後、夜、そして日曜の朝、昼と集中指導となり、大変充実した、そしてハードな週末を過ごすことに。でも彼らは一週間、合宿で合唱漬けなんですね。そういや、昔自分たちもやってたなあ、と思いながらも若い力には本当に恐れ入ります。
嬉しいことに、すでに音もきちんと取ってあって、作曲の意図を交えながらも、最初から曲作りの細かいところまで練習できたのは大きな収穫でした。
今回の初演作の詳細については近いうちにお知らせしますが、久し振りのピアノ伴奏曲で、かなり壮大なテーマを扱った重い曲です。8月の演奏会に向けて、大変楽しみになってきました。
久し振りに古巣の団を訪問して、OBの方といろいろ懐かしい話もしました。卒業以来、ずいぶん疎遠になってしまったので、次回、仙台を訪問するのも今から楽しみです。
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January 24, 2009
「楽譜を読む」と題していろいろ書いていますが、結局のところ音楽のやり方に正解など無いのです。私が問題だと思うのは、正解がないものにきっちりとした正解を求めようとすること、逆に正解が無いことをいいことに指示を無視してしまうことです。いずれも両極端な態度ですが、正解が簡単に見つかるようなものなら、そもそも芸術とは呼べないわけで、その中でもがくことこそ音楽することの苦しみであり、また楽しみであるのではないでしょうか。
楽譜を読もうとする時、作曲家が何を訴えたいのか、何を指示しようとしているのか、を読み解く必要がありますが、作曲家の人となりは結局のところ楽譜を通してしか伝えらません。必要以上に作曲家の存在を重視すると、全ての記譜に厳格な意味を求めてしまいがちです。そうすると、論理的に矛盾することがたくさん出てくる。その矛盾に対してさらに厳格に解を求めようとすると、知らぬ間に論理の罠にハマり、作曲家の言いたかったことからさえ遠ざかってしまいます。
楽譜を通してしか見えない作曲家は、楽譜を通してだけ見ればいいのだと思います。少なくとも今生きている作曲家ならば。(古い曲の場合、時代背景も考慮する必要が出てくるでしょう)
テンポのときにも言ったように、指示の直接的な意味をそのまま鵜呑みにするのでなく、その本質的な意味を常に読み解こうとする態度が必要です。
だから同じく"p"と書いてあっても、小さくしたいピアノなのか、大きくしたいピアノなのか、使われ方によって異なる場合もあります。"Tempo primo"といっても、もしかしたら必ずしも最初のテンポと同じでなくていいかもしれません。アクセント、スタカート、スラーのようなアーティキュレーション記号にいたっては作曲家によって、曲によってさえ、その意味合いが違う場合もあり得ます。
でもそれらを読み解くセンスは、日頃注意深く楽譜を読むことによって、十分鍛えることは可能です。でも鍛えた結果は違うものになる可能性もあります。それが、読み解く人が持つ芸術的なアイデンティティとなり、オリジナリティとなるのです。
こんなことを言っていると、結局何を言っても正解かどうかわからない、あやふやな感じを抱くと思います。でも残念ながらそれが真実だと思います。
私が言えるのは、指示の直接的な意味に拘泥して過度にロジカルな解釈を突き進めないこと。どこかの段階で楽譜上の指示を一度曖昧なイメージに変換してみると、全体を俯瞰した本質が滲み出てきます。後は、自分が本質だと思ったことを自信を持って表現してみることです。
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January 17, 2009
アカペラスクエアのCDが出来てきて、各団の演奏を聴いています。
自分たちの演奏の傷が痛々しいのは置いておいて、HCCの歌ったウィテカーの"With a Lily in Your Hand"ってかっこいいなあと改めて思った次第。
近年出てきた作曲家の中で、ウィテカーは非常に質の高いコンテンポラリーな曲を書ける人だと私は評価しています。アップテンポ&変拍子とその和声感など、細かく見てみるとそれほど複雑な音でも無いのに、トータルとしての楽想の面白さが非常に斬新に感じます。こういうところが真の能力の高さを感じさせるのです。
甘すぎず、抽象化されたメロディなども才能を感じさせるし、ルネサンス的な音画的発想が曲に仕込まれているのも歌い手にアカデミックな楽しみを与えます。("butterflies"とか、"universe"とか)
あとウィテカーに特徴的だと思われるのはテンション音の使い方。
冒頭の2小節目の"Love" の和音。B-D#-E-F#-B-F# となりますが、つまり B の三和音に E が付いています。譜ヅラだと一見どう解釈していいか迷うのだけど、聴いてみるとこれが心地よい。
私の感じではドミナントの11th(sus4的とも言える)と3rdを同時に使っている、というように解釈しました。なんでドミソにファが付いてるの?と思うとちょっと奇異だけど、ドミナント的に使うなら音楽の流れの中で効果的に聴こえる場合もあるのでしょう。
当然今風の曲ですから、maj7th, 9th はかなり多用されるわけですが、上と同様 11th の扱いがやはり面白い。"universe"の宇宙的な広がりを感じさせる和音では、F#の和音に、6th,9th,+11thのテンション音が乗っかります。特に最高音のソプラノの+11thが神秘的な感じを出しています。
同様の音は、前の方にもあります。32,34小節のG#とか、35,36小節のD#の音とか。D#はテンション音というよりは、リディア旋法的と言った方がしっくりくるかもしれません。
そういった温故知新的な技法と、現代風アメリカ風な音使い、ウィテカーはそれらをうまく縫合して聴き易い音楽を作ることに非常に長けた作曲家ではないでしょうか。
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January 10, 2009
オルバンの"Daemon Irrepit Callidus"を練習する機会があったのですが、YouTubeで検索すると、まあ世界中のたくさんの合唱団がこの曲を取り上げているのが分かります。いまや隠れた名曲と言ってもいいかもしれません。
この曲の魅力は、ポップスに通じる今どきのビート感を持っているという点、それからモテットでありながらメロディや音の使い方にまさに悪魔的な毒を孕んでいるという点にあるのではないかと思います。
それでいて全体的な楽想がシンプルなので、味付けのしがいがある可塑性も演奏者のやる気をかき立てます。
そうは言っても、このテンポでオルバンの現代的な音程を正確に守ることは難しく、多くのアマチュア合唱団の練習では音取りに難儀するものと思われます。
しかし、実際歌ってみると、この音のハマらなさというのは、歌詞をさばくためのディクションやリズム感、発声のような基礎技術と関わり合っていて、テンポをゆっくりして音を取っても実はあんまり解決にならなかったりします。もっと、総合的な音楽に対する感性の高さが要求されるのです。
実際演奏の動画を聴いても、細かい音符で和音を感じることは難しく、むしろ音楽的にはリズムのキレの良さ、発語の深さのほうが強い印象を与えます。
これは、音符からもそういう傾向を読み取れるのです。
例えば冒頭のメロディ、3小節目の2拍目、7小節目の2拍目はアルトとソプラノが半音でぶつかっています。それから18小節目のアルトはCの方が和音感が高まるのに、Bbを続けるために敢えて9thの微妙な音を使います。30小節やエンディングの半音進行の部分も、各パートはあまり和声の帳尻合わせ的な音を使いません(それでも縦の和声も意外と変ではないけど)。
いずれも、縦より横の力学を重視した音の配置になっているように思われます。
あと楽譜からは、スラーの扱いに多義的なところがあって(同一シラブルの指定、フレージング、単語感をだすため?など)、若干演奏者を迷わせる部分があるかもしれません。
恐らく日本人には、この曲の鋭さを出すために言葉の彫りを深くさせることが大変難しいのではないでしょうか。特に「デーモン」の"d"の爆発具合、「エー」の開き具合を優しくしないことがこの曲の雰囲気を出すのに重要なことのように思えます。
この曲の表現の仕方について敢えて天の邪鬼的な発想をするのなら、私としては「悪魔に打ち勝つ強い心」を表現するのではなく、あくまで「悪魔」そのものを表現したいと思います。悪魔への対抗心はお客さんが感じれば良いのです。
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December 22, 2008
思いのほか多くのお客様に恵まれて、大変楽しく歌うことが出来ました。
そもそも私の魂胆としては、どうせ他の団は宗教曲が多いだろうから逆方向で印象付けよう、という気持ちでシェーファーの練習を続けてきたわけですが、実際聴いてみるとどの団もそれぞれ持ち味があって、本当に甲乙つけ難いのです。選曲的にも雰囲気的にもバラエティにとんだ演奏会だったと感じました。多分ジョイントということで、お互いいい意味で競い合うように練習してきたのだと思います。
今回私もマネージに加わりましたが、やはりいくつかの団が集まって何かをやるのって大変。合同の並びを決めるのだけでもずいぶん苦労していたみたいだし。それでも、実行委員会は比較的近しいメンバーだったので、うまくいったのかもしれません。
ちなみに今回の演奏会では、幕間の余興の"White Christmas"、アンコールの"Silent Night"の編曲をやらして頂きました。White Christmas の演奏はちょっとヤバかったですが、アンコールでは大人数で歌ってもらえて嬉しかったです。
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December 16, 2008
1年以上前より準備していたジョイントコンサート「アカペラスクエア」がいよいよ次の日曜日に迫ってまいりました。宣伝用ブログはこちら。
少人数合唱団ゆえ、なかなか自前で演奏会する余裕も無く、それなら同じ境遇の団が集まってジョイントコンサートでもやろうか、というのが元々の魂胆。
各団ステージだけでなく、合同ステージでは岸先生の指揮で武満徹の「うた」から4曲を歌います。
各団の演奏はまだ一度も聞いていませんが、曲名だけ見るとコンクールとかで聴くような、昨今の少人数用アカペラレパートリーが目白押しで(ウィテカー、オルバン、カライ、ラクール、コチャール、ブスト・・・)合唱マニアの方にはとても楽しめるコンサートではないでしょうか。
逆に浜松くんだりで聞く一般的な合唱コンサートとはかなり趣きが違うでしょうねえ。
ちなみに、私はヴォア・ヴェールのステージにて、シェーファーの"Felix's Girls"を指揮します。合唱エンターテインメントを私なりに追求したステージにしたいと思っています。
まだまだやり残したと思うことは数あれど、何とかお客様が楽しんでもらえるような演奏を目指したいと思います。
浜松近辺の皆様、まだ週末のご予定がなければ是非ご来場ください。
12/21日 p.m.2:00〜 浜松アクトシティ中ホールです。
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December 13, 2008
当たり前だけど、演奏するためには、まず楽譜を読まねばなりません。そして、楽譜に書いてあることを咀嚼して、解釈する必要があります。それに演奏者自身のフレーバーを加えて自分たちのオリジナルの演奏にしていくわけです。
危険なのは、フレーバーを加えることばかりに注力するあまり、楽譜の解釈を十分にしないことです。それは曲を作った際の意図を歪めてしまうことになり、結果的には曲の良さが伝わらない独りよがりの演奏になる危険性があります。
では、どのように解釈するべきなのか?まずはテンポ指定を例に考えてみましょう。
最近のほぼ全ての曲にはテンポはメトロノーム指定があります。
これは完璧な絶対量なので、間違えることの無い明確な指標ではありますが、そもそも生演奏において、厳格に完全にテンポの揺れなく演奏することは不可能です。しかも、編成や演奏場所などにおいても容易にテンポは変化します。
しかし、だからといってテンポ指定は無視していいわけでは無いでしょう。
この時の視点として、まあ絶対指定の±10%くらいのブレはいいじゃない、とかそういう考えもありますが、個人的にはあまり感心出来ません。それは結局、テンポ指定の絶対性に依存しているからです。ブレの許容範囲値自体も、視点を変えれば絶対量と言えてしまいます。
そもそも、生演奏のテンポ設定に絶対量などあり得ない、というのが私の考えです。
大事なのは、そのテンポ指定の本質的な意味を考えて、曲全体で伝えようとしているイメージとテンポ指定をリンクさせること。それから、曲の流れの中でのアゴーギクを捉え、テンポの変化を相対的に捉えることだと思います。
最初の点は、このテンポでこの曲を歌ったら、こんな風なフレージングにならざるを得ない、というポイントを探すということを意味します。テンポによってメロディの流れ方も変わるし、息継ぎのタイミングも変わるはず。その表現はキープするべきなのです。逆に考えれば、その曲のイメージを損なわない範囲なら多少テンポを変えてもいいということになります。
次の相対的に捉えるという点。例えば、テンポ=96が、テンポ=88に変わったとします。これはテンポを遅くしたいという作曲家の意思が込められていると解釈できます。ですから、絶対的な数字を守ることよりも、その時点でテンポ感が変わったと感じるように明示的に演奏するべきでしょう。
演奏時の状況の違いで楽譜通りの絶対的テンポを守らなくても、上記の点をしっかり解釈して演奏するなら、作曲家が描いたテンポ設定からそれほど遠ざかることは無いはずです。
テンポに限らず、キーワードになるのは、なぜそのような指示をしているかの本質を考えること、それから曲の他の部分との相対的な関係を調べること、ということが曲の解釈には必要なことだと私は考えます。
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October 09, 2008
「アカペラの面白さとは」を続けて書いたのだから、ピアノ伴奏付きの合唱曲についても論じる必要があるでしょう。
しかし、日本ではあまりにピアノ伴奏を付けることが当たり前になり過ぎました。合唱曲と言えば、普通、ピアノ伴奏は付くもの、という意識は多くの人にあると思います。だからこそ、アカペラの面白さをもっと知ってほしいと思う反面、それと逆のベクトルを持ったピアノ伴奏付き合唱曲についても模索してみたくなります。
昔はそれほど疑問を持たなかったけれど、最近になって特に感じること。
ピアノ伴奏付き合唱曲を聞いても、その曲が何を表現しようとしているのかあまり伝わってこない。もっと端的に言えばどんな言葉を歌っているのか、その内容が聞こえてこないことが多いです。
恐らく自分が歌う立場で聞いていると、あまりそんなことを感じないのかもしれません。しかし、純粋なリスナーとなって音楽を鑑賞しようと思うと、邦人ピアノ伴奏付き合唱曲は、たいていの場合、音像の派手さを感じても、なぜそれほどの派手さを必要とするのかが今ひとつわかりません。
その理由について一つ言わせてもらうなら、詩も曲も複雑すぎるのではないでしょうか。
複雑とは、芸術的価値とか、高尚であるとか、内容に深みがあるとかそういうこととは無縁の感覚なのです。あくまで単位時間内で人々が許容できる情報量を超えているのでは、という危惧です。それでもこういう曲が好まれるのは、合唱している多くの人が、心のどこかで複雑さを芸術的価値と結びつけたがる性向があるのではないかと感じたりするのです。
私は、音楽はもっと直感的で理解し易くあるべきだと思っています。もちろんそれは芸術的価値が低いということではありません。(いや、むしろ価値が高くなる要素ではないでしょうか)
仮に複雑な曲を作ったとしても、その複雑さ自体が伝えたいことなら構わないのですが、複雑さの陰で本当に伝えたかった言葉、動機が埋もれてしまっていては本末転倒です。
本来、ピアノが伴奏に付くことにより音像全体がダイナミックになるのですから、メッセージをより強く伝えることに使うべきです。単に音符数が増えて、音の数が増えてしまった中にメッセージが埋まってしまわないような曲がもっと書かれるべきではないかと思います。
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September 20, 2008
人の声は千差万別。だから、その複合体である合唱団のサウンドもまた千差万別です。一つとして同じ音色を出す合唱団はありません。
厳密に言えばもちろん楽器とて同じ話なのでしょうが、例えば鍵盤楽器の一つの鍵盤だけを押すのなら、人間が押しても猫が押しても同じ音が出ます。その再現性の高さこそが、鍵盤楽器の汎用的な能力を物語っているわけですが、音色に対する味わいは人の声ほどの多様性は持っていません。
声は音が出始めてから消えるまで、全て人のコントロールの内にあります。
音の立ち上がりも、もわっとした感じから、非常にアタックの強い歌い方までいろいろあるし、声の伸び方、そして消え方も同様に様々な音色や表現が考えられます。もちろん、それらは歌い手にしっかりコントロールされている場合もあるし、無意識になってしまっていることもあるでしょう。
特定の指揮者のもとで長く歌っていれば、合唱団全体もその指揮者の好みのサウンドに変わっていきます。鳴らすことを優先する指揮者、リズムを立てるのが好きな指揮者、アゴーギグの変化が好きな指揮者、端正な表現が好きな指揮者・・・。
指揮者が意識的に、あるいは無意識のうちに要求する音楽に対して、アカペラ合唱という音楽形態は特に過剰に反応するように思えます。良くも悪くも合唱団の持っている性質が増幅されてしまうのです。それは声という、非常に表現の幅の広い楽器を使用していることの副作用とも言えるでしょう。
具体的な例として、ある特定の曲を複数の団体が演奏したとき、本当に同じ曲なのか、と思うくらい違っていることがあります。テンポだけの話でなく、音楽を聴いたときの総合的な印象の違いです。
演奏する場所にも大きく影響されます。アカペラは人数の割には音量が出ないので、演奏に残響は必需なのですが、その残響の多さによっても曲が与える印象はずいぶん変わります。
アカペラという表現形態は、そのような表現の幅の広さを持っているからこそ合唱団や指揮者の音楽性が露骨に現れるし、演奏を聴けば普段どのような練習しているかといったことまでが透けてきます。同じ音符を演奏しても、無限に演奏のバリエーションが生まれ得るその多様性もまた、アカペラ合唱の魅力の一つではないでしょうか。
合唱はほぼアマチュア主体なため、実力面で何を大事にして、何をおろそかにしているかが分かりやすく、だからこそ力のある人にとっては、合唱団作りが何よりもやりがいのある仕事のように思えてくるのでしょう。
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September 16, 2008
よく音楽の三要素などと呼ばれるのが、メロディ、ハーモニー、リズム。
以前は、音楽をこんなに単純に割り切ることは出来ない!とか、マジメに思ってましたが、なんだかんだ言って大雑把に音楽を捉えようと思えば、こういう切り口はなかなか便利なものです。
さらに、この三つの要素を無理矢理、人間の体に当てはめてみると、メロディは顔、ハーモニーは上半身、リズムは下半身って例えはいかがでしょう。今どきの音楽の作られ方を良く象徴しているとは思いませんか。
確かに音楽が発展する過程は、音楽の持ついろいろな要素が上記の三つに分化する過程であったのかもしれません。
ある意味、メロディ、ハーモニー、リズムという三要素を最も意識して作られている音楽は、ポピュラー音楽ではないかと思います。中でも、この三つの要素をそれぞれ分解して、とことんまで探求しているジャンルはジャズではないでしょうか。インプロビゼーションは究極のメロディ性の追求とも言えるし、複雑なテンションを持つコード理論はハーモニーの追求。リズムもスイングを基調としながら一聴しただけでは分からないような手の込んだパターンも良くあります。
ピアノ伴奏+メロディといった音楽は、ピアノが体の例で言えば顔以外の要素を作ってしまいます。ピアノ伴奏付き合唱の場合でも、せいぜい合唱部分は「顔」と「手」くらい。胸から下はピアノが担当しているといってもいいかもしれません。
これがアカペラとなると、全てのパートがあるときはメロディであり、ハーモニーであり、リズムです。体で例えれば、音楽全体が頭から足の先まで声という楽器で表現されるわけです。
逆にポリフォニーの場合、全パートがメロディとなります。これはまるで頭だけが四つある状態(ちょっと気味悪い)。バリ島のケチャなんかだと、全パートがリズムと言えるかも。(ということは四つの下半身・・・?)
つまり音楽の機能がメロディ、ハーモニー、リズムに分解される前の、未分化で原始的な状態の音楽にも成りうるし、そういった表現が逆に全く新しい表現世界を作りだす可能性だってあります。
ちょっと論点が広がってしまったけれど、伴奏楽器の無いアンサンブルはそれぞれのパートが様々な音楽機能を担当することになります。特定の機能だけに習熟するのもそれは重要なことではあるのだけど、音楽の様々な機能を一つのパートが担当しうるそのスリリングさは、やはりアンサンブルの醍醐味の一つのように思います。
これは主に演奏する側の楽しみなのかもしれませんが、あるときはメロディ、あるときはハーモニーの一部、そしてあるときはリズミックに音楽全体を先導する、といった音楽の多面的な楽しみをアカペラ音楽では体験できるのです。
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September 11, 2008
アカペラ女声合唱の定番と言えば、小倉朗の「ほたるこい」。
合唱を普段聴かない人が初めて聴いても、きっと面白いと思ってくれることでしょう。もちろん、この曲の場合ある程度残響のある場所も必要だし、当然訓練された美しい発声も必要でしょう。それでも、曲自体が持つ何ともいえない不思議な雰囲気が人々の心に大きな印象をもたらすのだと思います。
しかし、譜面はいたってシンプル。ちょっと意地悪な言い方をすれば、作曲家が心に描いた効果以上のものを作るのに成功してしまった希有な例と言えるのかも。聴いて気持ちの良い箇所は、単に三つのパートが一拍ずれているだけなのですから。
それにしても、この気持ちの良さは何なのでしょうか?
無論、詩の内容ではないし、和声の面白さでも無いでしょう。敢えて言うなら音響的な美しさとでも言いましょうか。
しかし、逆にこの美しさは歌詞を持った合唱だからこそとも言えます。器楽で三パートに分かれてこの曲を演奏してもそれほど印象に残らないのではないかと想像します。それは、楽器ではあまりに音色が均質だからです。
歌は歌詞があることによって、常にその音色を変化させます。だから、演奏者がそれほど意識しなくても言葉によって旋律の抑揚がよりはっきり浮き立ってきます。そのため、対位法的に書かれた音楽を非常に際立たせることが可能なのです。
ポリフォニー、カノン、フーガといった時間軸上のずれを伴った音楽が、アカペラ合唱では非常に印象的に響く可能性があります。こういった音楽は、すでにルネサンス時代に様々な可能性が追求されているわけですが、今の時代でも、もっと今風のやり方で新しい音響を追求することも出来るかもしれません。
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September 06, 2008
前回の話とは全く別方向になってしまうけれど、声の持つ多彩な表現を利用しようとすると、ときにそれは非楽音になることもあるわけです。非楽音というのは、普通の音符で記譜できない表現のこと。
例えば、言葉をそのまま語る場合もあるでしょうし、叫んだり、笑ったりすることだってできます。ポルタメントさせたり、声を出している間に音色を変えたり、打楽器のマネをしたり、かけ声をかけることだってできます。
おおよそ、声は人間活動のあらゆる局面において使われるものであり、声を使った芸術では、そういった表現から色々な要素を取り込むことが出来るはずです。
それは声がもっとも原始的な発音体であり、感情の直接的な表現に適しているからではないでしょうか。
であるなら、合唱はそういった多面的な声の表現を、非楽音として音楽に取り込んでいくことに躊躇う必要は無いでしょう。もちろん、実際、そういう合唱音楽は世の中にたくさん存在します。
そういう曲は、一見、現代音楽的な扱いを受けてしまうこともありますが、ごく普通の曲の中であっても限られた範囲で使うことによって、さらに効果的になるに違いありません。
もちろん、この話もアカペラに限定されるわけではないけれど、伴奏楽器というのは音楽全体に秩序をもたらすことになるので、伴奏付きの合唱曲には、より声による非楽音が使われにくくなると思います。オーケストラ伴奏ともなれば、合唱はほとんど器楽に近い扱いを受けるようになります。そう考えると、やはり声の多彩な表現を効果的に使うには、アカペラがもっとも適しているのではないでしょうか。
エンターテインメント性を持った合唱音楽を作ろうと思えば、非楽音的な声の表現も使いたくなるものです。
残念ながら、日本の合唱団は、そういう音楽以外の表現を苦手とする人たちが多そうです。どうしてもやらされている感じが拭えなくて、もっともっと殻を破ってみようよと私は言いたくなるのですけど。
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September 01, 2008
アカペラの魅力について、もうこれに尽きるというところから言ってしまうと、やはり人の声のハモリの美しさなのだと思います。
もちろん、美しいハーモニーを奏でるには、それ相応の努力と、センスと、そして結局のところ人材が必要なわけですが、そういう美しい演奏を聴いたときの感動は格別です。
私の経験で言えば、キングスシンガーズやアヴェソルやオスロ室内、そしてBCJなど、生で聴いたときの感動は本当に忘れられません。いくら美辞麗句で表現しようとしても、生演奏のあの響きを伝えることはできません。
そういったプロ級のレベルは別世界なんだと思ってはいけません。
声楽家を集めたからって、いい演奏になるとは限らないし、アマチュアの団体だってコンクールなどで時折、本当に美しいハーモニーを聴かせてくれることもあります。
めったに出会えない瞬間だからこそ、それを追い求めることが大変ではあるけれど何より尊いことのように思えます。
もちろん、ピアノ伴奏でも美しくハモることを目指すのは可能でしょう。
でも、そこで聴ける美しさの純度がどうしても私には違うように思えます。美しくハモった合唱の和音の上に、あえてピアノのコードを載せるのは野暮というもの。ピアノにはピアノにしか表現できないことがあると思うけれど、合唱の純度を強調するなら、やはり同時に楽器の音は鳴らしたくありません。
楽器の特性という問題もあるでしょう。純正律とか平均律とか音律の話をする人もいますが、それよりも、ピアノが減衰系の音色である、ということの方が問題な気がします。持続するハーモニーの美しさとは、どこか異質な音楽表現を目指す楽器であると私には感じられます。
こうやって考えると、まずはアカペラ曲はハーモニーが美しい必要があるし、その美しさを際立たせるような書法が必要ではないでしょうか。単純ではあっても、長めの音価とシンプルなハーモニーによる音符は、より美しい合唱に近づくと思います。
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August 30, 2008
自分自身の合唱活動がもう10年以上アカペラ中心になっていて、ピアノ伴奏で合唱することが最近は全くといっていいほど無くなってしまいました。
たまにはピアノ伴奏もいいかなとは思うけど、いまやっている団では団員数も多くはないし、一度アカペラ中心になってしまうと、お抱えのピアニストを雇うのも経済的に効率的ではありません。
そんな流れの中で、自分が作る曲もほとんどアカペラ。すっかり合唱=アカペラという体質になってしまいました。
そういう環境の中にいると、邦人のピアノ伴奏付き合唱曲というのが、ますますほど遠いジャンルになってきて、幸か不幸か、そういった音楽を客観的に見られるようになった気がします。
もちろん世間一般ではピアノ伴奏付きの合唱曲を歌うのがまだ大多数ではありますが、コンクールに参加するような団体や少人数の団体が徐々にアカペラを歌うようになってきているように思います。
昔ながらの大人数市民合唱団とか、大学合唱団とか、ママさんコーラスなどが今でもピアノ伴奏の比率が高いのは、音楽的な問題というよりはむしろ団の運営や活動方法に由来しているのではと思います。お抱えのピアニストを遊ばせるわけにはいかないし、何より指揮者とピアニストのセットで練習を進めていくスタイルが定着しているということがあるのではないでしょうか。
もちろんピアノ伴奏の合唱スタイルを否定する気は全くないのだけど、まだまだアカペラ合唱の魅力というのが広く世間には広まっていないのかな、ということを感じたりします。
少人数合唱団が扱うアカペラ合唱曲も海外の宗教曲や、ルネサンス音楽がどうしても多くなり、一般のお客さんに聴いてもらうにはどうしても硬派な選曲になってしまいます。そう考えると、アカペラの邦人合唱曲がもっと充実する必要があるし、あるいはポップスの編曲などもアカペラの楽譜でもっともっと出ていいのかなと感じます。(唱歌をアカペラに編曲した「ノスタルジア」のヒットなどもそういう背景があるのでしょう)
そして、何よりそういったアカペラのオリジナル曲や編曲が合唱の楽しさ、美しさを引き立てるもので無ければなりません。個人的には現状ではまだまだそういう側面が足りないという気持ちを持っているのです。
良質なアカペラ曲の条件とは何なのか?自分なりにいろいろと考察してみたいと思います。(続くつもり)
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August 04, 2008
とりとめも無く書いてきましたが、ここで無理矢理合唱の話と結びつけてみます。
そもそも、これまで私がいろいろ書いてきたことは、創作の最前線に居たいと思う人間の一人として、芸術活動とは一体何なのか、と自問自答してきたことです。
それは一つには、合唱というジャンルが非常に保守的で、かつ、芸術活動の最前線にあるとは言い難い現状に対するいら立ちのようなものがあったからです。
私自身がそんな大げさなことを言えるほど立派な活動をしているわけではないけれど、自分の出来る範囲で何とかしてみたいという気持ちだけは持っているつもりです。
漠然とした不満を一つ具体的に言ってみるなら、合唱界にアーティスト、クリエータと呼べるような人が少ないという点が挙げられると思います。それは、一つにはアマチュア中心、コンクール中心の活動が、個性やオリジナリティよりも、保守的な価値観における優劣に終始しているという状況と無関係では無いでしょう。
だいたい、先進的な取り組みには常に賛否両論があるものです。そういったものの評価はコンクールというシステムとはたいてい相性が悪いのです。合唱に関わる多くの人がコンクールというシステムに関わっている限り、異質で破天荒なものを排除し、狭い世界で評価を得るために全体が均質化する危険性から解放されることがありません。
もう一つは、合唱の教育的な側面。合唱世界で名をなす方々は、私にはアーティストというより教育者を指向しているように見えます。率直に言えば、私は歌い手の情操教育のようなものはほとんど興味が無くて、舞台上でいかに観客をエンターテインできるような演奏を繰り広げられるか、その最も基本的な舞台芸術の原点がおろそかにされていることのほうが問題だと感じてしまいます。
尖った芸術家が合唱の世界にもっと必要だと思うし、私自身も(性格は全く尖っていないけれども)そうありたいと思っています。
そして、そのためには合唱という狭い範囲の価値観だけではなく、幅広い芸術作品を(観客として)鑑賞することによって、汎用的かつ根源的な審美眼を養うことが重要なのではないでしょうか。
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May 28, 2008
編曲話の続きということで、ポップスステージを企画した後、ではどんな風に演奏したら良いか、ということについて。
結論から言えば、ポップスだからこう歌ったほうが良い、などというものは私は無いと思います。
敢えて多くの人が言いそうなことと反対のことを言うなら、せっかく合唱に編曲したのだから、合唱っぽく歌うべきです。みんなが知っている曲を合唱という別の形態で表現するのだから、合唱であることの面白さを伝えなければいけないはず。間違っても、オリジナルの歌手の歌い口を全面的に真似しようなどと思わないことです。(部分的に表現としておいしいところを頂くというのはアリでしょうが)
正直、聞いていて好きでないのは、ポップスステージになると、妙に生声になったり、歌い口もバラバラだったりして適当な演奏になること。それでも、聞いた人は「知っている曲があったから良かった~」とは言ってくれるとは思いますが、それなら「あの曲を合唱でやったら、こんな感じになって面白いんだ~」とか私は言わせたいですね。
ポップスでもジャズでも他人の曲をカバーするなら、自分なりの料理の仕方をして、その料理の仕方を楽しませたいわけで、それは合唱とて同じこと。アレンジにもよりますが、自分たちの魅力を最も良く伝える演奏を本来はするべきなのです。
そもそも、「ポップスっぽい」とはどういうことを言うのか。
裏拍を重視するとか、多少一般的なことはあるかもしれないけれど、現代に作られた音楽なら(もちろん、合唱曲であっても)多少なりともある程度のロックテイストを持っているし、ジャズっぽい和音だって使われます。
だから、元がポップスであろうと何であろうと、今ここで演奏しようとしている音楽の内容を理解した上で最善の表現をすればよいのであって、音楽をジャンルの枠ではめて、ポップスだからこう歌おう、と単純化することは音楽作りの思考停止なのだと思います。
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May 22, 2008
もちろん、市販の編曲集をそのまま利用して一ステージにしても、それはそれで構いませんが、どうせなら編曲ステージでは合唱団独自の色を出したいものです。
はっきり言って、このステージの面白さのキモは"選曲"に尽きると思います。この選曲のセンスで、そのステージの成否が決まるでしょう(というと大げさだけど、お客にとっての面白さは随分変わってくるはず)。
選曲のセンスについて、私が云々言うつもりはありません。
こればかりは、選ぶ人の芸術的な審美眼の問題ですし、誰にでも可能なレベルでクリエイティヴィティが発揮できる機会ですから、細心かつ大胆な選曲をしてみたいものです。
問題は、選曲した曲を合唱で歌えるような編曲があるか、ということです。
市販のものでそれなりのアレンジのものがあればいいのですが、選曲でオリジナリティを発揮すればするほど編曲譜が無い、という問題が出てきます。
しかし、そういう事態になったらそれなりの人に編曲を頼むか、自分たちで編曲してしまうか、くらいのバイタリティが必要なのです。そこまで入れ込んだほうが、舞台としても絶対面白いものになると思うのです。
なので、本来、普通の合唱組曲のステージよりも、私には編曲ステージのほうがずっと準備や仕込が大変なものだと思えます。
私が自分で編曲した実例を一つ。
ムジカ・チェレステという少人数アンサンブルのコンサートで、美空ひばりの編曲ステージをやったことがあります。もちろん全部アカペラ。
曲目は、「お祭りマンボ」「リンゴ追分」「川の流れのように」
傾向の違う曲を集め、また原曲から自由に離れて編曲したので、結構自分では気に入っています。
(「お祭りマンボ」は和音を工夫して早口言葉風、「リンゴ追分」はジャズ風、「川の流れのように」はちょっぴりポリフォニー風)
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April 03, 2008
たまたま車に乗っていたときに、カーラジオから今年のNコンの曲が流れてきました。今年の中学の課題曲はアンジェラ・アキなんですね。そういえば去年はゴスペラーズだったか。
オリジナルがJ-POPとして歌われていたわけではないけど、音楽のテイストはやはりJ-POP。もちろん、こういう曲や詩に共感する中高生は多いだろうし、今どきの音楽であるっていうのは、ある意味健全なことなのかもしれません。
まあ、世の中の音楽のほとんどはポップスだし、その他のジャンルが最も商業的に成功している音楽に影響を受けるのは自然なこと。様々な音楽がポップスという文脈の中で再構築され、変遷しているのだと思います。
ただし問題なのは、その取り入れ方。取り込んだつもりが取り込まれている、ていうことの何と多いことか。
ちょっと前に流行った女子十二楽坊なんて、私にはその典型のようにも見えました(あれはあれで音楽的に評価されているのかもしれないけど)。
なので私としては、安易な合唱のJ-POP化には秘かに警告を発したいのです。
J-POPの流儀を取り込んで、より今の人に馴染みやすい新しい感覚を作り上げることには大いに共感するけれど(例えば信長氏のように)、J-POPに完全に寄り添ってしまい、普通のJ-POPの曲にハモリパートを付けましたってなるとこれは、むしろJ-POPに飲み込まれてしまったと言わざるを得ません。
飲み込まれてしまうと、本物には勝てない。マネをする以上、マネの対象を越えることが出来ないからです。
別にJ-POPを合唱アレンジするのがいけないわけじゃないのです。それはエンターテインメントの一つとして十分ありなのです。J-POPをアレンジして歌っています、というのと、まるでJ-POPのような合唱曲です、っていうのはそれはちょっと違うと言いたいのです。
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March 24, 2008
週末に福島で行われた第一回声楽アンサンブルコンテスト全国大会に行ってきました。
全国大会というと、私にとってこれまでは聞きに行くものだったのですが、なんと今回は歌いに行くことに。
ただし、私たちの結果はここで言及するのは止めておきましょう。^^;
福島では花粉がひどくて、当日私を含む多くのメンバーが花粉症でひどい目に合いました。やはり、東北のほうは花粉のピークがちょっと遅れるんでしょうかね。それとも、静岡には無いタイプの花粉で私たちには免疫がなかったのか。
土曜日までに全団体の演奏は終わり、日曜日には各部門の金賞団体による本選が行われました。さすがにどの団体も素晴らしい演奏でしたが、その中でも個人的に印象に残った演奏をご紹介しましょう。
・コール スピリタス
見る限り、秋の全国大会でお馴染みの「なにわコラリアーズ」の面々にしか見えません。名は違えど、なにコラの精鋭メンバということでしょうか。
北欧中心の選曲ですが、日本語の曲やシューベルトの曲なども散りばめて、どのようなジャンルであっても、全て彼らの手の内で料理されてしまいます。やわらかさと輝かしさを兼ね備えた音色がとても心地良かったです。
高校生団体とは一味も二味も違う余裕さ、全体から溢れる軽やかさが、もはやプロと言ってもいい貫禄を感じさせます。
終曲は以前、宝塚でも聞いたような・・・。わかっちゃいるけど、ちゃんと楽しめました。
・宮城県第三女子高校音楽部
いつもはOG合唱団を全国で聞くくらいで、大合唱団という印象しかなかったのだけど、16人で歌うこの高校生の歌声は本当に美しかったです。
他の高校生の演奏に見られたある種の必死さ、あるいは限界ギリギリでの音楽作りではなく、本質的に地力が優れていて、純粋に歌い手としての能力の高さを感じました。選曲もバラエティに富んでいて、旋律の綾をよく表現していたと思います。彼女らの明るく、真っ直ぐな声は、個人的には全団体の中で一番好きでした。
・福井市麻生津小学校
一般の部で出て、最終的には第一位を取ってしまった恐るべき小学生6人組。
何と言うか、この少女らの演奏は今回のアンコンの一つの奇跡だったと言えるかもしれません。小学生にして、これほどの音楽的素質を持ち、なおかつ均質な声と感性を持った子たちが同じ小学校で6人集まったこと、これだけで奇跡と呼べるのではないでしょうか。もちろん、少女らの影に有能な指導者がいることは疑うべくもありません。
演奏の力もさることながら、彼女らの声質と福島市音楽堂の音響とのマッチング、また選曲といった面においても、この小学生アンサンブルの魅力を増幅させた原因として挙げられるでしょう。
少人数アンサンブルという形が、このように注目されるようになれば、またさらなるレベルアップにも繋がると思います。大合唱には無い、繊細な音色の魅力に今回改めて気が付いたような気がします。
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February 16, 2008
承前、思いがけず県のアンコングランプリを取ってしまったわけですが、曲の力も大きかったなあ、とあらためて思います。というわけで、アンコンで歌ったジャヌカン「鳥の歌」の面白さの秘密を考えてみましょう。
何といっても、鳥の鳴き声を歌で真似てしまおう、というのが、この曲のアイデアの大元にあるのは誰もが認めるところ。
しかし私の思うに、この曲の本当に素晴らしいところは、そのアイデアをいかに強調し、面白おかしく聞かせるかというその工夫にあるのではと思われます。そして、それはこの曲の構造に負うところが非常に大きいと思うのです。
では、この曲の構造について考えてみましょう。
曲中の終止を区切りとすると、曲全体は5つのセクションに分かれます。これを仮に、Sec.1~5 という形で呼ぶことにしましょう。
また、最初のセクションを除いた Sec.2~5 のそれぞれの構造は大まかに [A]-[B]-[C] と三つのブロック構成になります。ここで、各ブロックは
[A] - ベースから始まる主題
[B] - 鳥の鳴き声
[C] - 曲の中心主題
を表しています。
Sec.2~5 を通して、[A],[C] はほぼ同じ形(Sec.5のみ最後の[C]に一ひねりあり)、そして中間ブロックの[B]がセクションごとに違っています。
ここで一つ面白いことは、曲の冒頭、Sec.1 は [C] と同じであるということ。
単純に繰り返し構造を作るなら、[A]-[B]-[C] の構造を最初から始めようと考えるのではないでしょうか。ところが、冒頭が [C] であることによって、この主題が曲の中心であることが示され、[A] の主題が相対的に低い位置に感じられるようになります。そのため、その後同じ構造が繰り返されているにもかかわらず、有節歌曲的な雰囲気ではなくなり、繰り返しの頭である[A]の主題が出ても、曲の途中感がもたらされます。結果的に、曲全体の一体感が増していくのです。
もう一つ、[C]が中心主題であると感じることにより [B]-[C] の変化におけるカタルシスがより強固になります。「鳥の鳴き声」の喧騒が高まり、その緊迫感が増したところで、主題[C]が出現することに大きな快感を感じるというわけです。交響曲のソナタ形式等で、展開部が盛り上がったところで第一主題の再現部が始まるときの快感に近いものがありますね。
[B]のバリエーションもなかなか工夫されているように思います。[B]の長さを小節数で見てみると、Sec.2-10、Sec.3-18、Sec.4-30、Sec.5-16 となります。
長さ、及び喧騒の強さ、派手さという意味で、Sec.4 の鳴き声がこの曲の頂点となります。まさに「起承転結」を地で行く構造と言えるのではないでしょうか。
鳥の鳴き声にバリエーションを持たせる一方で、[A]、[C]の主題はほとんど無変形であることも、この曲の構造を分かりやすくさせていて、聴く側のテンションをうまく持続させているようにも思えます。
もちろん、ルネサンス期の音楽ですから、文化的なバックボーンや、当時の常識、という視点も必要なのでしょうが、現代の人々が聴いても楽しく感じられる普遍的な仕組みがこの曲には備わっているに違いありません。
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February 06, 2008
昨年の演奏会の勢いで、常時20名を超える団員になったウチの団。
今年も静岡県のアンサンブルコンテストに参加したのですが、16人の規定を超えてしまうので、昨年同様2団体で出場しました。
昨年は男声と女声で出ましたが、今年は年寄りと若者、というとんでもない分け方。ちなみに団名は、年寄組がそのままヴァア・ヴェール、若者組はプチ・ヴェール。双方とも知り合いを引っ張ってきて、助っ人を呼んだ結果、プチなんか半分近く非団員になってましたが。
さてさて、正直なところ今回は全く結果に期待しておらず、グランプリになると今年から始まる全国大会に出られる、という特典もほとんど気にせずにいたのですが・・・なんと結果は、ヴォア・ヴェールがまさかのグランプリ。静岡一般の代表で全国大会に出ることになってしまいました。
うーん、ほんとにいいんだろうか、とは思いつつも、今回はいろんなことが良いほうに良いほうに向かっていたのは確かですね。
他の強豪が軒並み和音の精度が要求される静謐な音楽だったのに対し、我々は曲も「鳥の歌」だし、パワーとノリで押し切るタイプの演奏だったと思います。それがアンコン的な各人の自発性とか、アンサンブルのスリリングさとか、そういうものを知らず知らずのうちに強調していたのでしょう。
もちろん、決まったからには福島では良い演奏をしたいと思います。今回ヴォア・ヴェールは結成以来、初の県外遠征となります。
全国大会が第一回ということですが、どんな団体が出てくるのかも興味あるし、いろいろな演奏を聴いたりできるのもちょっと楽しみ。
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December 08, 2007
久しぶりの「楽譜を読む」シリーズ。以前はこんな曲を書きましたっけ。
今回は、コンクールで今盛んに演奏されている「狩俣ぬくいちゃ」。実は私、明日演奏します。これで多分、演奏するのは最後です。ちょっとだけほっとしています。
まあ読むといっても、楽譜どおりにまずは頑張ってやるしかないわけですが、あらためて曲全体を見直してみるとかなり欲張りな音楽に思えてきます。
単に手拍子、足踏みがあるという意味ではなく、求められる効果が非常に多彩で、アカペラでありながらシンフォニックな音響を指向している感じがします。同タイミングに違う要素のものが詰まっており、おかげでパートのdiv.も多くなります。
また、もう一つのポイントは、微小な単位でのポリフォニーが多いという点。このテンポで、一拍単位のパートずれがかなり多用されます。この辺りは曲を立体的に見せるために大いに工夫したい箇所です。
和声的には、沖縄のスケールをしかもポリフォニックに処理するため、むしろ機能和声的な側面を敢えて抑えていて、そのあたりがとてもいい効果を上げています(4度堆積のハーモニーにもちょっと注目)。
ですから、全体的にはハモる、ハモらない、にこだわるより、旋律の力強さでぐいぐい押し通すのが、恐らく正しい演奏なのでは、と感じます。ただしよく出てくる五度のハモリにはこだわるべきでしょう。
問題の終盤、ここでの手拍子、足踏みは、もはや作曲者による演奏者へのイジメのようなもので、おおよそ演奏し易さを考えたものではありませんが、それがコンクールという世界観の中では、ある種の達成感を感じさせる要素にもなっているのでしょう。
個人的にはこの箇所、不必要に難しい気がしますが、夏に聞いた名古屋少年少女合唱団の狩俣を聞いて、工夫すればこんなにも面白い演出が出来るんだと、別の意味でこの音楽の可能性を感じました。
むしろここは、楽譜からどの程度まで離れて、演奏者のセンスを光らせるかが試されているのかもしれません。
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December 01, 2007
先日のヴォア・ヴェールの演奏会でアンケートをとり、その中にどの曲が面白かったか、という設問があったのですが、集計の結果、今回は面白いほどばらけていました。
今回は、組曲毎に1ステージという形を取らず、一つのステージでいろいろな曲をごちゃ混ぜにしました(コチラ参照)。おかげで一つ一つの曲に対して、お客様が意識して聞いてくれるような雰囲気をうまく作れたような気がしています。
(もちろん、第二部の「母音」は組曲ステージでしたけど)
一般の人が知っている曲を「良かった」という人は、いつでも一定量いるものです。だから、多くの合唱団では、唱歌系やポピュラー系(といってもかなり古め)のステージを作ったりするわけですが、そういうステージが必要だと考えること自体、その他のステージの存在意義を危うくすることになりかねないと思います。
今回、当然のこと、ノスタルジアの「村の鍛冶屋」「みかんの花咲く丘」にも人気は集まっていますが、実はそれと同じくらい、「狩俣」やマンチュヤルヴィや「母音」の各曲も気に入っていただけた人がいて、大変嬉しく思うと同時に、初めて聴いても面白い音楽、演奏はあり得ると確信したりもしています。
ただ、大まかに言っちゃうと、純粋合唱曲の中では、テンポが速い、音量が大きい、振りが付いている、歌以外の音がある、という要素があるほうが人気があったようです。
もちろん、シブいシリアスな音楽の良さを伝えることも大事だけれど、みんながそういう音楽を要求するのなら、それに答えるのだって重要なこと。
薄々気付いていたことを、今回の演奏会を通して、あらためて感じることが出来ました。
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November 26, 2007
昨日開催しました、ヴォア・ヴェール第三回演奏会、無事終わりました。
久しぶりの演奏会だったし、今回は司会付きで細かい出入りもあったので、ステージングにもいろいろと不安もあったのですが、まあ終わってみれば何とかなるもんだなあ、と感じています。
肝心の演奏のほうは、まあいろいろ事故はあったものの、それも含めて我々の実力なのかあ、というところ。いつもより大振りになった指揮がわかりにくかった、と私も後でずいぶん苦情を言われました。
まあ、それでも全体としては良くできたと思っています。
(とりあえず、個人的には「狩俣ぬくいちゃ」がちゃんと叩けてホッとしています・・・)
ところで、演奏会にこられた方、「五つの母音の冒険」初演はいかがでしたでしょうか?
アンケートでは、"E"に人気が集中していましたが、それってやっぱり演出のせい?音楽じゃなくて・・・
そのあたり知りたいですね~。率直な意見が聴きたいです。
初演の音源も出来たので、私も曲の紹介がし易くなりました。楽譜も何とかおおやけにしたいな、と思っているところです。
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November 17, 2007
昨年、朝日作曲賞を頂いた拙作「五つの母音の冒険」を、次の日曜日(11/25)に全曲初演する予定です。
詳しくはヴォア・ヴェールのページで。
とはいえ、正直、作曲賞応募を意識した曲なので、ウチの合唱団のようなフツーのアマチュア合唱団にとって、かなり難しいのは確か。10ヶ月近く練習してきても、未だに調子外れの音を出したり、落ちる人がいたり・・・で、まだまだ本番での心配のタネはつきません。メロディを気持ちよく歌って楽しむ、というような曲で無いのは確かです。
その一方で、自分の中では確実に一般の合唱曲と違うテイストを持っているという自覚があって、それが特に合唱を普段聴かない人にどのように聞こえるのか、大変興味を持っています。
「A」では、対位法的な方法でパートが重層的に重なる様子とか、その中に現れるシンプルで土俗的なメロディの対比とか、その辺りが聴きどころ。
「I」は、何しろ圧倒的なスピード感と、全く合唱らしからぬ瞬発的な表現が特徴。
そして今年の課題曲「U」は、ある種サウンドスケープ的な音像と言えるかもしれません。
「E」は、音のある小芝居というか、寸劇的要素があって、それがどこまで理解してもらえるかがポイント。
「O」は基本的な骨格は変奏曲なので、そのような曲調変化を楽しめるし、最後の壮大なコラールで組曲を締めくくる爽快感もあると思います。
いずれも、作った自分の感覚での話ですが、これがお客様に伝わるか、演奏がそれほどうまくなくても(もちろんまだまだ努力しますよ!)それでも伝わるプリミティブな音楽の力があるのか、そういった点を是非、聞いてみて欲しいと思っています。
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November 12, 2007
今年も行ってまいりました。合唱コンクール全国大会。
演奏だけでなく、いつものあの人、懐かしいあの人にも会えて、いろいろ楽しかった二日間。
いろいろなことを織り交ぜて、トピックごとにご紹介。
●注目のG4、全国では一団体(ちょっと寂しい・・・)
というわけで、拙作、課題曲G4ですが、歌ってくださったのは、職場の部、日立CSPのみでした。
実は、CSPはその昔、関東大会で私が在籍した団体と全国大会を争っていた良きライバル団体なのですが、我々は団員不足で団がほぼ消滅。かたやCSPは晴れて全国大会の舞台にのることになって、個人的には感慨深いものがあります。そんな彼らが拙作を歌ってくれたのも何かの縁でしょうか。
演奏後、挨拶に行ったらその場のノリで、記念写真に納まってしまいました。その後、指揮者の辻志朗さんとも曲のことなど語り合えたのは嬉しかった。
演奏は少人数ながら、各パートが彫りの深い表現をしてくれていて、曲の雰囲気を良く伝えていたと思います。
どうもありがとうございました。
●今ひとつ不発のG3、いささか食傷気味のG2
混声課題曲については、G4も取っ付きにくいし(結局自分で言っている-_-)、いろいろな団で選ぶのに苦労されていたかもしれません。
G3は大学中心に何団体か歌っていましたが、まだあの曲の魅力に対して突込みが足りないと私は言いたい。「クレーの絵本」の詩っぽく表現するならこんな感じ。「まじめなひとが、まじめにギャグをする・・・サムい。」
声色まで変えて表現を工夫していた、O久保混声の演奏が一番面白かったですが、さらにもう一つヒネリが欲しかったです。福岡教育大学の「ハクション・・・!」は面白かった。(うーん、結局演出の批評になってますが)
それから、G2を演奏した団体が非常に多く、審査基準としては良かったのかもしれないけど、曲自体ちょっと好みではなかったし、あんまり歌う団が多くてきちんと聴いてませんでした。すいません。
●今年の面白かった曲
会津混声の「Weather Report」はいいですね。今風のハーモニーと軽快なリズム感が心地良い作品。これは、また来年以降流行るかも。楽譜もゲット。
岡崎混声の委嘱作「廃墟から」も今までの信長作品とはちょっと肌合いが違う興味深い作品。曲調が様々に変化するのが面白いです。近いうち全曲初演されるようです。
リゲティの「Lux aeterna」は、もはや古典とも言える作品ですが、あらためて聴くと、なかなか面白いかも。(その後、今井さんに曲解説してもらって、さらに興味が沸いた(後述))
●そして最高に素晴らしかった、なにわコラリアーズ
古今東西の合唱曲で、私が最も素晴らしい曲の一つだと思っているトルミス「鉄への呪い」。
これをなにわコラリアーズが演奏するのですから、もう演奏する前から期待度ビンビンです。
そして、期待を裏切らない素晴らしい迫力、そして演出。この曲には振りの指定があるのだけど、その指示をさらに拡大解釈して、独自の振り付けをしていました。そのタイミングと、曲のイメージとのマッチがまた素晴らしかった。
音楽のメリハリや、厚みのあるハーモニーもいつもならでは。私の中では、今年の最高の舞台でした。
(本来、8分30秒で出来ないような気もするのですが、どこか省略していたのかは定かではありません・・・)
●噂の「かつてない二次会」に潜り込む
本番に出ていないくせに、合同二次会に参加。
想像以上のスゴいノリに圧倒。そりゃ声自慢が一つの部屋に集まるんだから、うるさくならない訳が無いですね。超ロングの乾杯コールが圧巻。
都連の方々、またいろいろな団の方とお話できて楽しかったです。
指揮者の先生方とは、清水敬一さん、グリーンウッドハーモニーの今井さん、ESTの向井さん、MODOKIの山本さんといろいろと興味深い会話が出来ました。
おかげで、歌いに来なかったにも関わらず、全国大会に参加したような気分になって、帰途に着くことができました。
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September 10, 2007
昨日、名古屋しらかわホールでのノルウェー・ソリスト合唱団の演奏会に行ってきました。
二年前の京都でのオスロ室内合唱団の感動を再び、というわけでこのコンサート楽しみにしていました。
全体的に言えば、大変素晴らしいコンサートだったと思います。
オスロ室内の圧倒的な感動とはまた違いましたが、ソリスティックな発声と、制御され統制されたアンサンブルが織り成す高レベルな室内合唱の世界を堪能しました。
冒頭のバッハはいまいちな印象でしたが、その後は京都の演奏を思い起こさせるような、ホールの周りで聴衆を取り囲んで歌うシーンや、歌いながら後ろのドアから消えていくという演出も。ああいう演出と、北欧の民謡的な旋律はとても良く似合います。
それに、あまり期待してなかった「風の馬」が意外に面白かったのです。
こういう選曲って、日本公演でのサービス的なものを感じていたわけですが、これが予想以上に質の高い演奏。リズムやハーモニーがとてもクリアで、曲作りも非常に明晰。今までに聴いたこともない構造的音楽作りの「風の馬」なのです。組曲からの抜粋であるにも拘わらず、曲の流れに物語性を感じる、非常に知的な印象を与える演奏でした。
この指揮者、グリーグでも心憎い音楽作りをするし、民謡も自らとても美しい編曲をするし、過剰な振りの無い的確な指揮もカッコいい。それに、ベルボトムのパンツを着こなし、見た目もクールだし、やはりスゴイ能力と人を惹きつける魅力を持った人だと思いました。
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September 01, 2007
・ポリフォニックな部分、各パートの繰返し周期が違っているが、4/4拍子で書いてある意味があるのですか?
演奏上での表現に関しては意味はない、と言えるでしょう。
とはいえ、ルネッサンス音楽のように小節線を書かない、というのも変だし、全部を一つの小節にしちゃうと「何小節目の何拍目」って指示するのも大変だし・・・まあ、実際の音楽活動の中でそれなりに小節線を書いておくメリットは大きいと思います。
逆に言えば、その程度の意味です。
・ポリフォニックな部分の中盤で調性が変わりますが、どのように表現すべきでしょうか?
特にこうして欲しい、というものはありません。あるなら楽譜に書きますし。
各団体にて、調性の変化に対して変化をつけるべきか、付けるならどのようにすべきか考えてみてください。
作曲上の意味としては、さすがにあまりに変化が無いのは聴くに耐えられないだろう、という意図で、このような変化を途中で入れています。
・tu tu tu は何を意味しているのですか?
私のイメージは、孤独の中で不安が高まっている様子を表したものです。例えば、もっと具体的に言うなら「頭痛のテーマ」と呼んでもいいかもしれません。そうすると、表現したいものが限定されるので分かりやすくなりますね。
同様に、演奏する団体で自由に具体的なものに当てはめてもらって構いません。
いずれにしても、静謐な各パートの繰り返しの中で現れる「tu tu tu ・・・」のテーマは、料理のし甲斐がある素材であり、この曲の演奏の成否のポイントとなるでしょう。
・どのような"u"の母音をイメージしていますか?
この曲は、全て同じ "u" の母音で歌われるべきとは思っていません。例えば、ku と mu の "u" の母音は、文章の中などでは音声学的に違う可能性があります。
ですから、"u" でひと括りにされる母音の様々な表情を音楽の中で表現して欲しいと思います。
考えようによっては、この曲は良いディクションの練習曲かもしれません。
・長谷部さんは迷宮が好きですか?
好きではないですが、仕事でよく迷宮に陥ります。
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August 27, 2007
それほど Frequently でもないですが、ネタも含め、これまで尋ねられたことなどを紹介します。
・3小節目、40小節目はなぜ 9/8 なのか?それ以外は四分音符が一拍なのに。
曲全体は、もちろん四分音符が一拍となるような拍の感覚で作られています。
この二つの小節の冒頭に八分休符がありますが、そこで「ウッ」と突っかかる感じを出したかったのです。流れるようにその小節を過ぎ去るのでなく、固めに音符を歌い始めて欲しいと思いました。
・43小節の一拍目のアルトは、上も下も As の音ですよね?
上の41小節のテナーで、律儀に div.した両パートにナチュラルがついているので、不安になったものと思われます。確かに、その部分と整合性が取れていませんでした。もちろん As です。
タネを明かすと、元々 41小節のテナーも両方にナチュラルが付いてなかったのですが、合唱連盟とのやり取りの中で付けるように修正しました。その際、43小節のアルトのほうまで気が付きませんでした。(しかも、41小節アルトの楽譜ミスの遠因に・・・)
・mu nu lu ku du yu の mu と ku にスラーがついていますが、どのように歌えばよいですか?
このスラーは積極的にアーティキュレーションを指示したものではありません。同一シラブルを示すためのスラーです。したがって、特にこのスラーを直接的な表現に反映する必要はないと思います。
そういえば、以前スラーについて書いたことがあります。
・mu nu lu ku du yu の5拍子は3+2で良いですか?
四分音符が三つ、二分音符が一つなので、3+2で振るのが自然かと思います。
・長谷部さんは孤独ですか?
芸術家を目指すような者なら、孤独なくらいがちょうどいいのです。
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August 25, 2007
同じ合唱団で指揮をしているO氏が開発したPC用ソフト、プリマヴィスタ2が発売されます。
先日は(仕事で)軽井沢合唱フェスティバルに参加し、宣伝をしてきたようです。
その体験版がダウンロード出来るようなので、ちょっと触ってみました。ダウンロードはこちら。
なるほど、合唱専用ということで、いろいろ工夫されていてGUI的に見栄えが良いですね。何といっても、コダーイシステムの移動ド表記が素晴らしい。自分で楽譜に書こうと思っても面倒ですが、自動で出てくれると嬉しいです。あと、全音や半音の違いだけにフォーカスして楽譜に表示される機能も、私的にはなかなかヒットです。楽譜上で音程が微妙に上下しているときに、半音か全音かって異名同音なんかもあって意外と識別しづらいことは良くありますよね。
もう一つ面白いのはレッスン機能。
譜例どおりに歌って、きちんんと正しい音程で歌っているか判断してくれる「視唱トレーニング機能」は、なかなか良いのではと思います。これで練習すれば、音程の悪いところ、取れないところを認識できるきっかけになることでしょう。
ちなみに体験版では28例ありますが、これが100以上になると、やりがいがあるんじゃないでしょうか。練習用コンテンツをもっと増やすと本当にこれでレッスンできるような気がします。
もう一つの音程トレーニングですが、これはちょっと難しい。これ、簡単に出来る人はほとんどいないような気がします。もちろん、これでトレーニングしたらかなり移動ドの力がつくとは思いますが・・・
恐らくこのソフトの一番のキモは、練習している曲のデータがあるかないか、ということでしょう。今練習している曲がデータとしてあると、あとはスクロールする楽譜に合わせて歌を歌って音が取れているか確認できます。
しかし、楽譜はスコアメーカーという別のソフトがないと作れないし(簡易的なスコアなら作れるようですが)、音取りするために楽譜データを作る、というのはちょっと非効率で現実的ではありません。
せっかくカワイはたくさんの楽譜商品を持っているのだから、それらをどんどんスコアメーカーフォーマットにして、公開するか安く販売するなどすれば、このソフトの有用性が上がると思います。
このソフトの力を十分に生かすには、コンテンツの充実が鍵ではないか、という気がします。
あと、微妙に不満なところ
・ピッチグラフの横軸のスケールがいじれない。
・ピッチグラフも点ではなく線で表して欲しい。
・視唱トレーニングは全音符だといまいち歌いづらい。
・ピッチ検出できなかったとき、データが途切れてしまうのでなく、表示に前のデータを使うなどして工夫すると、もう少し見やすくなるような気がする。
→リアルタイム性にこだわらなければ、もう少し精度の高いピッチ検出が出来るかも。
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August 22, 2007
そろそろ各地でコンクールが開催されているようです。
予想通りというべきか、G4を選んでくれた団体はかなり少なそうで、作曲者としては残念な気持ち。例年、公募作品を選択してくれていたO久保混声も、今年は違う曲だとか。
その中で、意外にも G4 は高校の団体で取り上げられているような感じです。各地の高校生、先生がたよりメールを頂いたりしています。未だに一般団体で取り上げてくれる団体を聞いたことがないのだけど、高校だけならもう6~7校くらいは耳に入ってきています。
先日は、浜松市内の某高校でG4を演奏してくれるというので、練習にお邪魔してまいりました。確かにこの曲の音取りは難しいし、若干音がアヤしい部分はあったのですが、毎日のように練習して良く練られてくると、なかなか面白い音響が楽しめるのですね。こんなに一生懸命練習してくれて、きっちりした音楽を作っていただいて本当に嬉しく思いました。
そういう意味では、練習時間が必ずしも多くない一般団体が、この曲を敬遠する気持ちはそれなりに良く分かります。人生経験だけじゃ、カバーしきれないんでしょうね。どちらかというと、まっさらな気持ちと莫大な練習時間を要求する音楽なんでしょう。
良く質問されることなど、また近いうちに紹介いたします。
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August 12, 2007
音楽の練習といえば、やはりメトロノーム。これをシンセで作ってみましょう。
と言っても、メトロノームから出てくる音色を作っただけでは意味がありません。メトロノームは、テンポ通りに音を出してくれるからこそ意味があります。
その機能をシンセで実現するのに最適な方法があります。シンセに詳しい方ならご存知と思いますが、最近のシンセにはアルペジエータという機能がだいたいついています。
例えば「ドミソ」と和音で鍵盤を押すと、「ド→ミ→ソ→ド→ミ→ソ→・・・」と楽器が勝手にアルペジオにしてくれるのです。実演奏で使うには少々、余計なお世話にも思える機能ですが、メトロノームには最適。
というわけで、早速作ってみました。
まず、音を二つ作ります。一つは小節の一拍目に使う「チーン」といった鐘のような音。Aのピッチにしました。
もう一つは、一拍目以外の音に使う音。ノイズにレゾナンスを効かせて木魚のような音にしました。
そして、この二つの音をスプリット設定で、一つのプログラムにします。(要するに一つの音色だけど、鍵盤の位置によって音色が変わるようにする)
「チーン」の音を最高音のドの音でのみ鳴るようにしました。そして、その上でアルペジエータ機能をON、押した鍵盤を覚えたままにするラッチ機能もONにして、出来上がり。
使い方は簡単。一番上の鍵盤から同時に4つの鍵盤を押すと、4拍子のカウントになり、3つ鍵盤を押すと、3拍子になります。テンポは楽器についているテンポつまみを回せば簡単に変更できます。
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August 09, 2007
先週末に、浜松アクトシティ大ホールで開催された浜松世界青少年合唱祭を見に行ってきました。5日のメインコンサートは10時から18時までのマラソンコンサート。結局、ほとんど全部見てしまいました。
ちなみに、前回の感想はこちら。
全14団体の演奏がありましたが、面白かったのは次の3つ。
・プエリ・カントレス・オリヴェンセス(ポーランド)
青少年の合唱祭なのに、なぜか男声には頭のはげたオヤジが・・・。いや、それが面白かったのでは無くて、演奏した曲が面白かったのです。2曲はカール・ジェンキンスのレクイエムから。これを選ぶとはなかなかしぶい。
しかし何より可笑しかったのが、最後の曲。これ、一切ハモリ無しの現代曲というか、パフォーマンス。みんなが叫んだり、指揮者がいきなり怒り出したり、全員がふざけ始めたり。圧巻なのは、まるでビデオでポーズボタンを押したかのような、全員の静止芸。大爆笑でした。
・名古屋少年少女合唱団
指揮者は全国大会でトヨタを振っている水谷さん。
しかし、ここは完全に、徹底的に、芸能の世界を極めようとしています。踊りと太鼓、手拍子、足拍子と、歌以外の要素だけでもう十分に楽しめます。
正直言って、この団には踊りあるいは演出のプロがいると思いました。これだけの少年少女の団員が、乱れなく(しかも本当に楽しそうに)舞台上でパフォーマンスを繰り広げるには、相当の練習が必要だったはずだし、それをきっちりと統率した演出家がいたことが想像されます。
ウチでもやっている「狩俣ぬくいちゃ」など、恐らく楽譜まで手を入れていたと思われます。(要するに、あるものが無かったり、無いものがあったり・・・)
・ノルウェー少女合唱団
この合唱団が演奏した曲は、この日演奏するために委嘱された現代曲。それも筋金入りの。
現代曲といっても、邦人作曲家が書くような意味不明なカオス的音響ではありません。いきなり「ギャー」とか叫びながら、少女たちが舞台上を走り回るところから曲は始まります。それが過ぎると、朗読+和声のない音響、の連続。朗読は英語だったようですが、残念ながら意味が分かるほど聞き取れず。
ただ、全員が白装束だったり、プリミティブな表現が多かったことを考えると、何かしら文明批判的な主張を持った曲なのかもしれません。見事に歌いきった、もとい、演じきった女の子たちに拍手!
もはや、合唱は芸能なのかもしれません。
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August 04, 2007
シンセを使って最初に作ろうと思った音は、合唱の練習や本番で使う音取り用の音。これまでも、練習では音取り用の音にいろいろ不満があったので、それなら自分で作ってしまおう、ということで色々考えてみました。
私のこれまでの合唱経験より、音取りに都合のよさそうな音の要素を挙げてみましょう。
・音が真っ直ぐであること
まあ、簡単にいえば、音程、音量、音色が鍵盤を押してから離すまで一定であること。こういった音は、あまりに機械的に聞こえてしまうので、実際の電子楽器に音色として載ることはほとんど有り得ません。
・ピッチが揺れないこと
音取り用なので当たり前ですが、ピッチパイプなんて吹く強さでピッチが変わってしまいます。
・音が減衰しないこと
ピアノで音取りをやる場合、音が減衰してしまうのが難点でした。
・和音で濁らないこと
派手な音だと複数の鍵盤を押しただけで音が濁ってしまい、和音感を感じることが難しくなってしまいます。音色的には近接する高次倍音の量は少ないほうが良さそうです。
・歌いながら一緒に弾いても音が聞こえること
これは実は上と矛盾するのだけど、合唱の音にマスキングされないような周波数成分も持つ必要があると思われます。
まだ実戦で試していないけど、一つ音を作ってみました。もういかにも電子音という感じなので、評判は良くないかもしれませんが・・・
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June 10, 2007
半ば自虐的に言わせてもらうと、今回の課題曲G4の拙作「U:孤独の迷宮」は、さしずめ歌って楽しくない合唱の代表と言えるのではないかと・・・そんな気がしてきました。;_;
いや、課題曲だけでなく、この組曲「五つの母音の冒険」全体、そういうオーラが漂っています。もちろん、同様のテイストを持った邦人曲はたくさんありますが、実際、それらの曲は一部の有力団体に演奏されているだけという現実もあるでしょう。
言葉が無い、というのはそれだけで、歌い手を萎えさせるようです。どんな複雑な音でも、言葉があるだけでイメージが具体化されるからでしょう。本当は、同じような意味で、音楽によってイメージを具体化させようとしても、言葉よりも歌い手には響かないようです。
その一方、普通の邦人合唱曲が合唱関係者以外に受け入れられない理由の一つとして、歌詞が聞き取れない、ということが挙げられるのではないかと私は考えています。そもそも、合唱というのはよほどの努力をしない限り、歌詞が聞きづらい。なのに、さらにピアノが派手に鳴ったり、声部がポリフォニックに処理されることによって、なおのこと歌詞は分からなくなります。
実はだからこそ、外国曲には宗教曲が多いのでは、とも思っています。ラテン語の典礼文は、いわばお約束の歌詞であり、作曲家にとっては絶対音楽的な取り組み方ができるからです。
歌詞を聞き取りやすい音楽と、歌詞が無くても音楽として鑑賞に耐え得る音楽、このような二つの反するベクトルが「聴いて楽しい」に向かうと思っています。
あえて悪い表現をするのなら、歌い手に音楽を構成する部品としての自覚が足りないのではと思います。自分にメロディがあれば嬉しい、自分に歌詞があれば分かりやすい。こういう感覚を乗り越えて、そこで展開される音楽全体に想いを馳せる必要があります。
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June 07, 2007
とタイトルを書いてみたものの・・・そんなの人によって違うよなあ、と今更ながら思いました。
それに合唱している人の判断基準と、そうでない人とは違うし、自分自身が考えること自体、どうやったって片寄った見方にならざるを得ません。だから、本当は、合唱をやっていない(あまり知らない)音楽好きの人に聞いてみたい、というのが本心です。逆に言えば、自分は合唱以外にどんな音楽を聴いて楽しいと思うのか、考えてみるのもいいでしょう。
とはいいつつ、自分なりに聴いて楽しい合唱を考えてみます。
例えば、自分がスゴイと思った合唱関係の演奏会を思い出してみましょうか。有名どころでは、キングスシンガーズ、クレマンジャヌカンアンサンブル、BCJ、それから最近では世界合唱の祭典でのオスロ室内合唱団といったところでしょうか。(他にもあったかもしれないけど思い出せない・・・)
合唱コンクールでは、なにわコラリアーズ、会津混声、EST、アンサンブルVineなどの演奏が好印象に残っています。
いずれもキリっとした音像、クリアなサウンド、メリハリのある表現、そして軽快で乱れの無いリズム、といったような要素に私は好印象を持つようです。
それは曲に対する印象も同様で、明快なリズム構造を持ち、メロディがはっきりしていてキャッチーなほうが好き。逆に言えば拍節感が薄くて、声部が多い分厚い音はそれほど好みではなさそう。
さて、皆さんの好みはどんな音楽でしょうか。
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June 02, 2007
民族性うんぬんなどというと、どんどんマクロ的に話が発展していくので、これまでと似たような話題ですが、もうちょっと合唱の現場に近い視点で思うことなど。
今の日本の合唱音楽の問題は、合唱界自体の閉鎖性にあると思います。その閉鎖性の由来は、何度か書いているけれど、聴衆不在の演奏が多いということ。ありていに言ってしまえば、聴いて楽しい音楽が少ない、のだと思います。
ところが、合唱をやっている当の本人たちは、あまりそうは思っていない。自分たちが心を込めて歌えば、きっとこの曲に込めた想いが伝わるはずだ、という根拠の無い希望だけを胸に抱いて日々練習しているわけです。毎日合唱の練習をやっている人は、残念ながら、一般の人がどのような合唱音楽を良いと思うか、という感覚からどんどん遠ざかります。合唱をやっている人が合唱音楽を聞けば、歌い手的な立場で聞いてしまうので、もはや一般リスナーとは聴くときの視点(聴点?)が違ってしまいます。
つまり何を言いたいかというと、「歌って楽しい曲」と「聴いて楽しい曲」には微妙なずれが存在するということです。
日本の合唱界のように聴衆不在の閉鎖的環境では、聴いて楽しい曲が育たず、むしろ歌って楽しい曲が増えていきます。ところが、ときおり海外の合唱を聞いてえらく感動するのは、たいていの場合それが「聴いて楽しい曲」だからであり、そういう音楽をきちっと演奏できる実力が備わっているからです。
なぜ、日本の合唱音楽では「聴いて楽しい」よりも「歌って楽しい」に向かってしまうのか、それはまた別の機会に考えるとして、しばらく「聴いて楽しい」要素とは何か、「歌って楽しい」要素とは何か、具体的に考えてみましょう。(すでに書いたことがあるようで・・・)
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April 15, 2007
とある助っ人要員で今日、フォーレのレクイエムを歌ったのですが、やっぱりいい曲だなあ、フォーレク。
フォーレの曲の良さというのは、ひとえに流麗な和音展開にあるのではないかと思います。そこで、今日歌った記念に(?)、Sanctus の和音を解析してみます。といっても、「Hosanna」の前まで。
ハープのアルペジオが曲の雰囲気を決定していますが、和声的に注意すべきなのは、これが第三音を最低音に置いているというところ(第一展開)。根音や第五音でなくて、第三音というのが独特の浮遊感を感じさせます。和声が移ろっても、明確な調性を感じさせないような感じをうけます。
基本的に "Eb/G" で曲は進行しますが、その後は以下のようになります。
[A]
| Eb/G | Eb7/G | C7/G Bb7/Ab | 〃 | Eb/G …
[B]
| Gm | Dm/F | Gm6 | D/F# | 〃 | 〃 | Bb7 …
練習番号[A]の "C7/G" は面白い音なのだけど、ドミナントとして "F" には向かわずに "Bb7 " に移行します。このときベース音の "G→Ab" という動きが自然なので "C7→Bb7" という和音進行が変に聞こえません。おかげで、この後、曲はまた Es-dur に戻れます。
次に面白いのは、練習番号[B]で、あれあれと思っているうちに、半音下の調に転調してしまうところ。ここも、"Bb7"から一旦 "Gm" に行き、三の和音だったのを二の和音に読み替えて、次の "Dm" でF調に転調、しかもその次を "Gm6→D" として、気が付くと Es-dur が D-dur に転調してしまいます。何と鮮やか。
ちなみに、この D-dur は、練習番号[C] の直前で、"Bb7" に無理やり行った後、Es-dur に戻ります。
[D]
| Bbm/Db | GbM7 | Db/Ab Ab7 | Bb/Ab Gm Bb7/F |
| C7/E Bb7/F | Eb/G Ab | Bb7sus4 Bb7 | …
「オザンナー」と盛り上がる前に、一拍単位で和声が移ろうところ。気持ちいいですねえ。特に "Bb/Ab→Gm→Bb7/F" とバスが降りながら、Des-dur ぽかった雰囲気をまた Es-dur に戻そうとする動きがいいです。
フォーレの和声は現代から見れば、複雑でもないし、テンション音も多くありません。しかし、ベース音を根音から外して、浮遊感を漂わせながら次々と転調していく様は、シンプルでありながら学ぶところがとても多いのです。
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March 17, 2007
全日本合唱コンクールの課題曲集である、合唱名曲シリーズ36がすでに全国各地に届いているようです。
今年は、「だるまさんがころんだ」に続いて、拙作が課題曲に選ばれて今からワクワクしているのですが、その一方で今回自分の曲を選んでくれるか心配もしていたりします。
だって、詩がないし、分かり易いメロディもないし、一般的には変な曲ってふうに思われているでしょうから。曲自体の説明は、ハーモニーの記事にも書いたのでそちらを見ていただくとしても、なかなか理解されない危惧を抱いているわけです。
今年はG3の池辺晋一郎の曲もかなりエキセントリックで、混声のしっとりした日本語の合唱曲がなく、すでに各方面から非難の声が・・・。といっても私のせいじゃないからね。個人的には "U" でなくて、"A" のほうが課題曲に合っていると思ったんですが、決められたものは仕方ありません。
しかし、G3の「鼻」だって、その面白さを掘り下げて徹底的に演じきれば、素晴らしいエンターテインメントになると思います。一般的には合唱団員はこういう曲を嫌いますが、そういうチャレンジもアマチュア合唱団にはして欲しいとも思います。人を楽しませてこその演奏なのですから。
本当は作曲家の出来ることなんて限られているのです。本来、難曲をこなすことが演奏の凄さなのでなく、演奏者が身体の中から何かを表現しようとしていることが大事なのです。私としては、池辺氏のG3も、私のG4もそういった表現の可能性を持った音楽だと思うし、むしろ、演奏家の中の表現力をこそ問うような音楽なのだと思います。
正解のある表現なんて面白くないじゃないですか。
さてここから重要情報
G4の 「"U":孤独の迷宮」 の楽譜に間違いがあります。
41小節のアルトの一拍目、上の声部は F にカッコつきのナチュラルとなっていますが、これは Fis の間違い。音符に#を付けてください。
この件、ハーモニーにも掲載されるはずですが、まずは取り急ぎお知らせいたします。
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February 05, 2007
たまには、演奏の報告など。
昨日、静岡県ヴォーカルアンサンブルコンテストに出場してきました。
静岡県の規定は6名~16名で、この最大人数がなかなか微妙なライン。ウチ(ヴォア・ヴェール)は最近20名弱の団員数になっているので、今回は男声と女声と分かれて参加。ちなみに団体名は、女声が「ヴォア・ジョーヌ」男声が「ヴォア・ブルー」です。練習は昨年暮れから、男女で分かれて行いました。男声はそのままではちょっとテナーが弱いので、数名助っ人を呼んで補強^^;。
ちなみに私はヴォア・ブルーの指揮をしました。曲はコダーイの「A CSIKO」と、昨年の課題曲「小夜の中山」。
一ヵ月半くらいの練習だから決して少なかったわけじゃないけど、なかなか全員揃わなかったりで、バランスなどもう少しつめたかったのが率直な印象。この辺が少人数合唱の難しさでもあるのですが、それはある意味、どの団でも同じなんでしょうね。
結果は女声、男声ともに銀賞でした。いい感じまで仕上がったとは思ったのですが、それ以上に上手い団体が多かった。
最後の2回の練習では男声、女声で聞きあってダメ出しをしましたが、同じ団内で聞きあうという経験はあまりないんで、結構刺激になったんじゃないかな。
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January 14, 2007
以前より、移動ド論者である私は、そのメリットを訴え続けていたわけですが、実際、世の中そう単純じゃないのです。
移動ドを実践してくれる人もいるのだけど、うまくやらなければ手段と目的がこんがらがってしまいます。音を取るための移動ドなのに、(当然の帰結ではあるけど)移動ドで歌うことそのものが目的となってしまう場合があるのです。
だから、無理やり移動ドで歌おうとして苦労するくらいなら、口に出して歌わなくてもいいのに、と思うのだけど、口に出すからこそ覚えるという側面もあり、これは一概には言えません。
以前もこんなことを書いたように、現実には、どの調でも移動ド読みできて、各階名の音程関係がしっかり頭に刻み込まれていて初めて、そこにある楽譜を移動ド読みして楽に音取りできるようになるのです。
従って、今練習している曲を一生懸命移動ド読みしようとするより、もっと移動ド読みのための基礎練習をしなくてはいけないように思います。まあ、実際そんな暇はないんですけど。
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December 29, 2006
邦人曲の特殊性シリーズ、ほっとくとどこまでも書きそうなので、今年も終わりそうだし、今回あたりで止めておきましょう。
今まで言ったことを全部まとめると、音楽的骨格をピアノに任せて奔放に歌い、宗教的祭儀より平和や学術的なテーマを好み、音そのものより歌詞の意味にこだわり、ロマン派的交響曲の世界を指向し、器楽的メロディより言葉のイントネーションの自然さを気にする、そんな曲が喜ばれているのです。
結局のところ、需要の無いところに供給は無いわけで、皆(合唱団)が欲するからこそ、こういった曲が生まれるわけです。
でも、それって本当に観客が聞きたい音楽なんでしょうか?
みんな真っ赤な顔して興奮して歌っているのに、それに子音もしっかり立っているのに、でもポリフォニックなんで何を歌っているかは認識できず、時折聞こえる言葉の断片からはやたらとシリアスな雰囲気だけが漂ってきて、果たしてこの曲を理解しようと努めるべきか戸惑っている会場のお客さんたち・・・そんな光景が目に浮かびます。本当はもっと直接、感性に訴えてくるような音楽が聞きたいのに、考えることを強要されると、ちょっと引いてしまう。
そのくせ演奏会が終わった後に、ロビーに出てきた団員が「ねぇ、どうだったー」と聞くと「うーん、良かったよー」などと社交辞令を交わすのは、演奏会のマナーでもあるわけで、結局のところこういったアマチュアの演奏会は今後とも延々と続くわけです。
もっともっと質が高くて、一般のお客さんが楽しめるような演奏が、聞きたくなるような合唱曲が、必要なのだと思います。
上手い合唱団が増えれば、観客の耳も肥えていくし、音楽批評も的を得たものになっていくでしょう。そうすれば、さらに上手い合唱団が増えていくはずです。
ことは簡単には進まないのでしょう。100年くらいの年月は必要かもしれません。100年経っても、日本に合唱文化が根付いていないかもしれません。でも、そういった上向きのスパイラルを少しずつでも作っていくしか道はないのだと思います。
作る立場から言えば、今まで言ってきた特殊性の要素を少しずつ崩していって、「おっ」と思わせるような世界観が示せれば嬉しいのですけど。
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December 24, 2006
どの言語でも、言語によるメロディへの縛りというのが存在するはずです。
そういう意味では、日本語だけの問題ではないのですが、それでも日本語がメロディに与える影響は、他言語に比べても非常に大きいのではないかという気がします。この話、昔から繰り返し書いている内容でもあります。例えば、これとかこれ。
そういうわけで多少重複しますが、改めて日本語の特殊性を挙げてみると:
・高低アクセントの言語なので、メロディに言葉のイントネーションが反映されないと気持ち悪い。
・促音「っ」、撥音「ん、む等」が、一つの音符を要求する。(モーラと呼ばれる単位がビートの基準)
・一単語の音節数が多い。
といった点があると思います。
これらはいずれも、日本語をメロディに載せる際に大きな影響を与える要素です。音楽の重要な要素であるメロディが日本語の影響を受ける以上、外国曲とメロディのフィーリングの違いが出てくることは避けられないことでしょう。
もちろん、それは他言語の曲を歌う醍醐味の一つとなり得ます。フランス語の曲は、やはりフランス語の影響を受けているし、マジャール語の曲は、マジャール語の影響を受けているわけです。それは言語のアイデンティティであり、否定すべきことでは決してありません。
しかし、音楽的要求と言語的要求の対立は、作曲においても演奏においても良くあること。そんなとき、日本語を大事にする、という気持ちが強すぎると、音楽全体にとりとめのない印象をもたらすような気がします。
日本人であっても、合唱であろうとなんであろうと、やはり音楽をまず聞きたいのであって、そこから目を背けると、結局閉鎖的な価値観に閉じこもってしまい、合唱関係者以外を寄せ付けない演奏になってしまうのではないでしょうか。
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December 16, 2006
一つのステージで何を演奏しようかと考えたとき、合唱組曲というのはちょうど良いボリュームです。そんなわけで、邦人合唱曲のほとんどは合唱組曲という形で作曲されています。
外国曲はどうかというと、もちろん組曲である場合も多いのですが、単品で書かれることも比較的多く、組曲であることにそれほどこだわりがあるようには思えません。
ただこの問題、単純に組曲で書かれているかどうか、という点だけに納まらない要素があります。
それは、邦人合唱組曲が、単品が寄せ集められて作られた組曲、というよりは、各曲が有機的に結びついたり、組曲全体が一つの作品としての大きなうねりを持つように考えられている、という点です。これは、組曲というよりはむしろ交響曲という感じに近いと思います。
交響曲は全体で一曲であり、各楽章は交響曲という全体の中で演奏されることで初めて意味を持つように考えられています。そのため巨大化した交響曲では、第一楽章の冒頭に立派な序奏があったり、最終楽章の最後はこれでもかという盛り上がりが作られます。第二、第三楽章は、キャラクターの違うスケルツォ、緩徐楽章の小曲が配置され、曲全体に変化が付けられます。
こういった、交響曲的傾向が邦人合唱曲全般に見られると思うのは私だけでしょうか。
私の思うに、日本で合唱に関わる多くの人はクラシック音楽マニアではないかと感じることは多いです。しかも、ここでいうクラシックは、19世紀のドイツロマン派的性格が非常に強いです。もちろん、合唱はポップスか、クラシックか、と聞かれればクラシック音楽に近い傾向を持っているとは思いますが、ブラームスやブルックナー、マーラーのような交響曲と比べると、何か違うような気もします。
恐らく、こういった交響曲指向が、ピアノ伴奏を使う、もう一つの理由になっているのかもしれません。つまり、アカペラより音楽を、よりダイナミックで派手に表現できるからです。
しかし、合唱というのはもともと非常に繊細な音色を持っていて、それを静かな残響のある場所で楽しむ、という感覚が欧米人にはあるのではないでしょうか。その感覚は、ドイツロマン派の大交響曲とは、かけ離れているような気がします。そもそも合唱に何を求めているか、という点において違いがあるのかもしれません。
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December 09, 2006
前回はテキストそのものでしたが、今回はそのテキストをどのように扱うかという話。
別の視点でいうならば、詩に何を求めているのか、ということかもしれません。となると、自然と話は前回と繋がってきます。
例えば、宗教的なテキストの場合、使われる語句が似通っており、定型的な表現になることも多い。一つの言葉にたくさんの想いや意味が込められていて、その言葉の音響自体が一つの雰囲気やイメージを作り出すかのようです。過去からたくさんの人々が同じ言葉を使い続けていて、その言葉の意味は歴史という地層の中で「意味」を超えた役割を与えられているのかもしれません。
民謡や、その他の土俗的、古代的なテキストも同様の傾向を持っています。こういったテキストに曲が付けられたとき、むしろ曲は言葉の「意味」から解放され、純粋に音楽的な創意工夫のみで作られ易くならないでしょうか。
あるいは、言葉の意味を伝えるという役割より、言葉の音響そのものにその言葉の重要性があったりしないでしょうか。
逆の例で言ったほうが分かりやすいかもしれません。
現代の創作詩の場合、詩自体の意味が大事です。ここで言う「意味」とは、言葉単独よりも、むしろ文章に近い単位となるでしょう。詩を伝える、ということは、詩の内容を伝えるということであり、詩の中の文章の意味を歌で伝えるということです。そういう意味では、ここでいう「意味」とは極めて論理的な要素を持っています。
このような状況において、作曲家は詩の持つ意味を音楽的に表現しようと試み、場合によっては言葉と同じ表現方法を音楽に持ち込もうとします。
こういうスタイルは決して邦人曲特有というわけではないのでしょうが、それでも、多くの邦人合唱曲がそのような表現方法を持っているのは確かなように思います。
歌う側もそれを当然と思っていて、詩が何を主張しようとしているのか、それを合唱の中でどのように表現すべきか、というのが日本における合唱練習の中心課題となっています。
残念ながら、楽曲構造とか、主題の分析とか、そういう音楽的アナリーゼの結果から、自分たちがどのように演奏すべきかというアプローチは、日本のアマチュア合唱の世界ではほとんどされているように思えません。
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December 04, 2006
エラソーなタイトルを掲げてますが、一マニアの単なるたわ言だと思ってください。かなりアヤしい推論になる可能性がありますので。
そんなわけで、外国曲と邦人曲の肌触りの違いを論ずるなら、やはり何といってもその詩の世界が大きく違うのでは、と思うわけです。
集団が声を合わせて何かを唱えるとき、そこには集団の利益となる何らかの必然が存在するはずです。そのほとんどは、端的に言えば宗教的行為でありましょう。逆に言えば、宗教的行為とは、集団の各自が進んで皆と同じような行動を取ろうとする有様なのかもしれません。
だいたい宗教というものは、過激であればあるほど排他的になります。愛国的な想いも宗教の一種と言えるかもしれません。ある種の激烈さが集団の気持ちを高め、一体感を醸成します。
そもそも合唱というのは、こういった宗教的祭儀の中から生まれたものだと私は思います。
ここで無理やり邦人曲の話に戻すとすると、日本の合唱曲には根本的に宗教性が欠けているのではないでしょうか。それは恐らく、戦後教育や労働運動といったサヨク的土壌の中で日本の合唱が育まれてきた、ということと無縁ではないようにも思えます。だから、国威発揚よりも、国家的犯罪を糾弾するような作品が喜ばれますし、宗教を扱っても、そこには純粋な信仰心よりも、学術的な匂いが嗅ぎ取れます。
また教育的観点から、テキストがどこまでも文学的であろうとしたため、(芸術的と思われている)現代詩の世界に足を踏み入れることになります。私は詩に詳しいわけではないけれど、そういった作品は、どこまでも内省的で観念的、そして陰鬱な気分を持つ印象があり、そういう陰鬱さこそ文学的であり、また歌いこむ価値があると思われている感じがします。
どちらがいいと断じているつもりはないのです。宗教に潜む明快な勧善懲悪的発想は、決して今の世界を幸せにするわけではありません。
しかし合唱の本質と宗教的祭儀の世界が近いものであるならば、邦人合唱にもそういった要素があってもいいのかもしれません。
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November 29, 2006
というわけで、今年の演奏の印象など。
ちなみに今年は2団体聞き逃しただけで、あとは全部聞いたんですが、風邪気味なためか興味ない演奏時にはほとんど気絶していました。
個人的には、2年ほど前にヴォア・ヴェールで振ったG2の「The Coolin」に思わず聞き耳を立ててしまいました。ところが、大学の部で連続したG2はまるで葬式のような暗さで、あまりの生気の無さにがっくり。そんなにもったいぶった曲作りはいけません。一般の部で聞いたMODOKIのG2が個人的には1番良かったです。
それにしても、今回の全国大会は選曲の傾向に大きなターニングポイントがあったように感じます。
一言でいえば、合唱のエンターテインメント性を追及する演奏がとても増えたのです。これは、昨年の合唱の祭典の後から私もこのブログで再三言ってきたこと。そういう意味では、何とも嬉しい方向性です。しかし、あまりに多くの団体が同じ方向を向いたのは、それはそれでちょっと奇妙な感じもしたり。
要は、ステージの質を競うならば、音楽の技術だけではなく、ステージトータルの訴求力まで吟味すべきであり、各団がエンターテインメント性を競えば競うほど、各団体の芸術的プロデュース能力が問われるようになるわけです。声楽技術だけでなく、総合芸術としての合唱パフォーマンスを競う、そんな大会に変わっていったら良いと思います。もちろん、単なる演芸会のようなダサダサの演出なんかも出てくるでしょう。そういうのは、容赦なくこき下ろせば良いのです。
個人的に印象に残った演奏、曲は:
1.新潟大学室内合唱団の自由曲、コスティアイネンのミサですが、これがなかなかかっこいい曲。
2.ゾリステンアンサンブルの自由曲もかっこいい! 早速パナムジカに楽譜を買いに行ったら、何と去年の合唱の祭典で購入済だったことが判明。なんだ、持ってたんじゃん。それにしても、この団体の音楽傾向は私の趣味とシンクロします。
3.合唱団まいの「ほら貝の笛」。これはすごい演奏。いささか過度な緊迫感が要求されるけれど、メリハリの利いた音楽作りで、圧倒的な印象を残しました。指揮者独特の世界観が際立っていました。
4.岡崎混声は、昨年に続いてウィテカー作品。鳴り物も派手になりましたが、作品が描写する情景を完璧に再現していた演奏技術にも脱帽。
5.合唱団あるの「アレルヤ」も面白かった。楽譜を買いましたが、無茶苦茶難しい曲。これ、普通の団体にはとても出来ません。作品の持つ世界観には共感するものの、もう少し難易度を下げて作曲するべきだと私には思えます。
今回は審査員も大変だったと思います。
鳴り物付き、振りつき、非楽音の連続、倍音唱法、指パッチン、手拍子、足拍子・・・。今までの声楽技術だけで審査するコンクールで無くなりつつあります。こうなると運営側も少しずつ変わっていくことになるのでしょうね。
例えば、このままだと、ほとんどの自由曲は現代曲だけになってしまいます。ルネサンス・バロック、古典・ロマンなどの音楽的なジャンル分けも必要になってくるでしょう。だいたい、大学、職場、一般なんて分け方は音楽的には、何の意味も成さないのですから。
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November 27, 2006
熊本で行われた全日本合唱コンクールに今年も行ってきました。
今年は24日に休みを取って23日に出発し、コンクールの前に2日ほど長崎観光してきました。しかし、23日の長崎の雨がとても寒くて、風邪をひいてしまうという失態。のどが痛くなった後、声がガラガラになった状態で熊本入り。まったく、こんな声で合唱コンクールに来るなんて、何という不届き者でしょう。それとも、コンクールに参加する人の分まで風邪をひいてあげることによって、合唱人の原罪を一身に引き受けたということなのか・・・なんのこっちゃ。
さて、去年の朝日作曲賞の表彰式が1日目の終わりにあったため、今年もそうだと思った方が何人かいたようです。今年はなぜか2日目の終わり、最後の最後に表彰式がありました。てなわけで、お話したかったけどお会いできなかった人が何人かいました。残念。おまけに風邪でマスクしてたので、ちょっと私だと認識しづらかったと思います。挨拶した雨森さんにもスルーされそうになったし・・・。
それからカワイ出版のH氏といろいろ雑談。非常に興味深い業界情報などを聞けましたが、正直言ってちょっとショックな話もあり。要は、出版社は慈善事業じゃないわけで、売れないものは作らないわけです。朝日作曲賞だからといって、誰も買ってくれなければそれは売れない商品と同じこと。
1日目の夜は、一般Aで参加した浜松ラヴィアンクールの打ち上げに参加。以前も書いたように、県大会では私が振っていたので、全く今回の大会は他人事ではなかったのですが、今年は全国までコマを進めた大変飛躍のあるコンクールだったと思います。さすがに全国一般Aの中ではちょっと見劣りしたけど、まだまだ団として開発の余地はあるなあ、と感じました。
打ち上げは、相変わらずの盛り上がりでしたが、どこかで「泣きスイッチ」が入ったのには驚きましたよ。全国出たんだし、そういう感傷も大事だなあと、まるで他人事のように感じてました(殴らないでー)。
今年の佳作の方は石黒晶(さやか)さんという男性のかた。楽屋裏でいろいろお話できて楽しかったです。神戸女学院で音楽を教えておられる、まさに本職のかた。こんな方と肩を並べるのは本当に恐縮なのですが、その一方、ちょっぴり嬉しかったり。昨年の山内さんといい、朝日賞の応募にベテラン作曲家の方が増えているのは、賞の権威も高まっていい方向かもしれません。(まあ、応募し続けたという意味では私もベテランなのかも)
審査発表を待っている合唱団の方々には、朝日作曲賞の授賞式は余計なセレモニーだよなあ、と感じつつ、来年は拙作の課題曲をよろしくお願いします。来年のG4は「"U":孤独の迷宮」でございます。
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November 22, 2006
邦人曲が洋モノと何が違うって、やはりピアノ伴奏に対する考え方でしょう。
そもそも洋モノの合唱曲にはピアノ伴奏付きのものがほとんどありません。もちろん全然ないとは言いませんが、一般的に芸術性の高い合唱音楽というのは、アカペラであることがほとんど。オーケストラ伴奏、オルガン伴奏のほうがピアノ伴奏よりもまだ多いくらいかもしれません。また、ピアノ伴奏が付いていても、かなりシンプルな伴奏だったり、合唱パートも簡単だったりで、芸術性の追求というよりはすぐに歌える気軽さを意識しているように思えます。
何か根本的に合唱に対するピアノの感覚が違うのです。
もちろん、音楽文化の違い、というのはあるでしょう。恐らく日本の音楽文化というのは明治以来ピアノ中心に発展してきており、全ての音楽の中心にピアノがある。しかし、他の国は違うような気がします。
もしかしたらピアノというのは、あんまりいい比喩じゃないけど、補助輪付きの自転車のような捉え方をされているのかもしれません。ピアノ一台あれば、音楽の和声感やビート感を表現できてしまいます。歌う側は、音楽の骨組みをピアノにまかせ、あとは自由に表情たっぷりに歌うことができます。
悪い言い方をすれば音楽の基礎はおいといて、とりあえず気持ちのいい部分だけいただこう、という風にもとれます。そういう意味で、ピアノ伴奏で歌った場合、アカペラに比べたらソルフェージュ的な正確さを追求される度合いは薄まることでしょう。未だに多くの合唱団が「ウチはアカペラが苦手なんで~」なんて言うのを聞きますが、それは言い換えれば、まあ気持ちよく歌えればいいじゃない、と開き直っているとさえ感じます。
ピアノ伴奏が、そもそも歌が苦手な人のための補助輪のようなものだとしたら、なぜここまで、邦人合唱曲はピアノ伴奏の重要度を高めてしまったのでしょう。
これまた妙なアナロジーを持ち出しますが、この状況はもしかして、マンガ、アニメとかに通じるものがあるのでは、という気がします。少なくとも、日本以外では、マンガ、アニメはお子様向けのものだった。もちろん、最初は日本もそうだったのでしょう。ところが、なぜか才能のある人がマンガやアニメで素晴らしい作品を作るようになり、日本のマンガ、アニメは世界を席捲するほどになりました。
なぜか、ジャンルの入り口(幼児向け、初心者向けというような)にある場所からなかなか離れることができず、そういっている間に、その入り口そのものをすごいジャンルに発展させてしまう、というような性質が日本人にはあるような気がします。
ちょっと関連する話題を以前書いたことがあります。→ここ
しかし、残念ながら、日本のピアノ伴奏つき合唱曲は世界を席捲するには至っていないようですが。
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November 18, 2006
合唱曲を歌っていて、邦人モノと洋モノでなんでこんなに肌触りが違うのだろう、と感じたりしませんか。
例えば、イギリスの合唱曲とフランスの合唱曲でも、もちろん音楽の雰囲気は違うし、言語からくる音楽の拍節感も変わってくるでしょう。さらに、ハンガリー物や北欧物、ちょっと毛色が変わってフィリピンの合唱曲などなど、どれもがもちろんそれなりの特徴を有しています。しかし、それでも、それら同士の違いよりも圧倒的に邦人合唱曲ってかけ離れているような気がするのは私だけでしょうか。
私は高校時代から合唱団でずっと邦人曲を歌ってきましたから、学生時代は合唱曲とはそういうものだと思っていたし、むしろ海外の合唱曲のほうが取っ付きにくくて近寄りがたい雰囲気を感じたものです。ところが、自分自身で曲を作ったり、演奏活動が充実するにつれ、邦人合唱曲に根本的に足りない何かを捜し求めるように、どんどん洋モノの合唱曲に吸い寄せられるようになって来たのは紛れもない事実。
私が作曲する曲は当然全て邦人曲なワケで、よく考えてみると私自身がこれまで曲を作るために考えたことの多くは、その邦人曲に足りない何かを探すことだったような気がします。もちろん、これは洋モノみたいなカッコ良さへの単純な憧れというわけじゃなくて、邦人曲だってもっともっと魅力のある試みができるのじゃないか、という問いなのです。
こんなことを書くとずいぶんエラそうですが、もちろん自分の試みがうまく行っているなどという自信もないわけで、いつもいつも同じような命題が、まるで振り子が振れるように私の意識の中で放浪しています。
そんなわけで「邦人合唱曲」の特殊性みたいなものを、もう少し具体的に、また論じてみたいと思っています。
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October 07, 2006
春号の楽譜掲載に次いで、今回の秋号にも私の記事が載っています。何といっても、一等賞なんで誇らしい気分になりますね。それに、審査員の先生がどんな評価をしてくれるのか、その記事も大変楽しみにしていました。
そして、今年の審査員のコメントは作曲家の西村朗氏。
いやー大変、嬉しいコメント。曲の本質をホントにうまく短いセンテンスでまとめてくれていて、さすがだなあと思いました。あの中の「意味がないような、あるような・・・」というくだりでは、曲の微妙な仕掛けをちゃんと分かってくれたことに、心の中で思わず拍手喝采。それにしても、ここまで持ち上げてくれると、こんなに誉められてもいいものかと、ちょっと不安になります。
この記事で、拙作に興味を持ってくれる人が増えることを期待したいと思います。
さて、別の記事でちょっと気になったところ。
「科学の目が見た合唱の発声」という記事で、結論となっている合唱の声と、オペラの声は違う、というのはまあ納得するにしても、中盤のコンピュータ分析については、ちょっと???という感じ。倍音って何の音に対する倍音をどうやって計ったんでしょう。不協和倍音って言葉も初めて聞いたし・・・。科学と言いながら、かなりアヤしい雰囲気です。
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September 11, 2006
しつこく指揮ネタで・・・
人の指揮をアレコレ言うのはできても、なかなか自分でうまく実践できないこともあります。練習の方法とか、団員の集中力を高めるとか、そういうのでなくて、あくまでバトンテクニックとして。
例えば、すごくゆっくりなテンポの6/8は、2拍子みたく円運動で振るか、それとも6つに分割するか。もちろんケースバイケースなのだけど、どちらとも言えない微妙なテンポの場合、困ったりしますね。円運動で振って、なんか間が持たなかったり、間を持たせようとして体まで棒について行ったりして、ちょっとダサい感じになったり・・・。だけど分割すると、歌っている側がすぐに固めに反応してくるので、それで困ったり。
それから、何といっても指揮の一番難しいところ(それゆえに、一番指揮が重要な場所)は、rit.して、次の出を指示するところ。もちろん、これもどんな拍子で、どんなテンポかによってずいぶん違います。例えば、次のテンポがとても遅いとき、アインザッツも長めになってしまい、コンパクトに次のフレーズに入れなくて、違和感を感じることがあります。ルネサンス物なんかはたいてい2/2拍子で、二分音符のアインザッツだとちょっと間が空きすぎるような場合がありませんか?そんなとき、私は四分音符のアインザッツで指示したりします。もっともその場合は、歌い手に口で説明して「こうしたら出てね~」とか言っちゃうんですが。
あと、指揮初心者が苦手なのは、弱起の指示。
もちろんそれなりに長い経験があったって、最初にその部分を振るときは、ちょっとばかりぎこちなかったり。振りながら、次のフレーズの頭が弱起であることを発見して「あっ、やばい!どうしよう」みたいな。実際、弱起の指示って、単に棒の動きだけでなくて、表情での促し方とか身体の浮き具合とか、そういう部分が意外に大切。そして、それこそ、経験の賜物だったりするわけです。
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September 07, 2006
だいたい、指揮なんてとてもあやしい役割です。
重要視される割には、上手い下手といった基準もあるようでないし、歌い手側も人によって好みは様々です。
以前、合唱センターに指揮法を勉強しに行ったことがあって(こちら参照)、これは正直言って今でもためになったと思っています。
その理由の一つは、そこで学んだことが指揮で表現したい音楽性云々といったことでなくて、本当に純粋にバトンテクニックであったということがあります。いわゆる斎藤メソドというヤツ。指揮の手の動きを分類化し、どのような箇所でそれを使うか、という即物的かつ実践的な内容でした。
たまたま、そういう経験のおかげで、逆に世の指揮者がいかに自己流で、場合によっては全く解読不可能な動きをしているか、と思うようになりました。
私にとって、指揮者を見る一つの視点は、いかにその指揮が几帳面であるか、ということです。
指揮者というのは、往々にして感情的、扇情的、表現過多になってしまう危険性があります。それは、音楽が表現しようとすることを表情や仕草で模倣しようとするからで、しかし、そんなことはたいていの場合、指揮者本人の独りよがりである場合が多いのです。
私が言う几帳面さとは、例えば、同じような箇所は同じに振り、アインザッツでなるべく次のテンポの指示をしようとし、音量や入り、切りの指示が明瞭な、そういった振り方のこと。それは自然に出来るといった類のものではなく、指揮者が意識的にそうやろうとしてしている積極的な行為のことです。
本番であってもそういう指揮をきちんとしている人は、音楽作りも良く考えているように感じられますし、恐らく練習時の段取りも非常に良く、効率的な練習をしていると思います。
正直、良い指揮者と呼ばれる人が必ずしも几帳面なタイプでないことは良くあることですが、少なくとも几帳面な指揮者は(几帳面でない人より)良い指揮者である、と私は言いたい。
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September 03, 2006
前回書いたラヴィアンの指揮ですが、本番前合計4回の練習がありました。私が来る前にすでに音も取ってあり、後は私が振るだけ、の状態から練習が始まったのでした。
私はもちろんプロの合唱指揮者として活動しているつもりではないので、これってかなり厳しいシチュエーションなんです。いつも指揮している合唱団では、音取り段階から自分が前でやっているので、大体音を取っている間に曲のイメージや指揮の方法なんかは自然に出来てきます。ところが、初めて行った練習で音が取れていて(しかも岸先生の指揮で一度本番経験あり)、そんな状態で初めて指揮を振るというのは、身が縮むような思いなのです。
もちろん初めての練習前には、楽譜を読んだり、テープを聴いたりして、指揮のイメージを何とか作ろうと努力してはみました。だけど、やはり最初の練習は随分うろたえてしまったように思います。やはり私の中でしっくりくる振り方が決まるまで、数回の練習は必要でした。
こういう話って指揮をされている方としたこともないので、ほかの指揮者の方はどんなふうに解決しているのか、私には皆目検討がつかないのです。
もちろん歌も、みんなと歌わないとなかなか音が取れないとか、そういうこともあると思います。でもそれって、ちょっと素人くさい。うーん、そういう意味では私はまだまだ指揮者としてはかなり素人クサいのかもしれません。
もちろん初めての練習前に、楽譜を読んだだけで曲作りをイメージし、振り方まで決めてしまう、なんてことを要求されるわけではないのだけど、それでも、ある程度それなりに振りつつ、さりげなく指揮の仕方を修正していくっていうのは経験豊かな指揮者ならきっと自然に出来ているんだなあ、と実感しています。
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August 27, 2006
95年に当時やっていた合唱団でコンクールに出て以来、気が付くと毎年コンクールに出ています。昨年、毎年出ていた職場合唱団もコンクールに出ないことになって、ついにコンクールと縁が切れたかと思いきや、とある女声合唱団を振ることになったのでした。(去年の記事はここ)
というわけで、今年も浜松ラヴィアンクールの指揮者としてコンクールに参加。
県大会は指揮者の岸先生が来れないので、私はその代打なのですが、県で落ちると関東大会で岸先生が振れなくなるので、県大会をパスしなければいけないという妙なプレッシャーがあります。
それでも、ラヴィアンのメンバーは非常に個人レベルが高く、ピッチが悪いとか、発声がどうのとか、そういうことなしに音楽作りそのものを楽しませてもらえる、というのがラヴィアンを振る最大の楽しさ。それに歌い手もすぐに反応してくれるので、逆に指揮者の力量が鮮明に現れてしまうという怖い合唱団でもあります。
さて、本日の県大会の結果、幸いにも県代表をゲット。しかも全部門を通してのグランプリも頂いてしまいました。演奏そのものにはいくつか傷はあったんですけどね・・・。でもまあ、努力が報われた感じがして素直に嬉しいです。
関東は岸先生の指揮になりますが、ぜひ関東も頑張ってもらって、全国に行けるよう応援しています。合言葉は「熊本で会おう!」です。
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August 12, 2006
合唱の演奏における個性とは何でしょう?
また、演奏において理想的な個性とはどういったものでしょうか?
正直言って、日本の合唱団体において、「個性」など求めるべくも無い、というのが私の感想。芸術的な意味での個性を合唱に求めるなら、合唱団はもっと芸術家たらねばなりません。合唱団員一人ひとりが、自分がクリエーターである、という自覚を持っているでしょうか。あるいは合唱指揮者も、個性的な芸術観を持って、世界にそれを問うというくらいの気合を持っているでしょうか。
もちろんそれをアマチュアに求めるのは酷かもしれません。まずはプロこそ、芸術団体としての個性を追求してもらいたいものです。
で、つまり何を言いたいかというと・・・、自分もアマチュア合唱に携わる一人として、もっともっと芸術的でありたい、と願いつつも、なかなか自分の意識と皆の意識の差を感じるなあ、ということなんです。
各団員が演奏家として観客に感動を与えようと考える意識がやはり薄いと思うのです。むしろ彼らは、練習を通して、作曲家や指揮者の音楽観に触れあい、そのことを享受しているだけに見えます。まだ気持ちは、楽しませる人ではなくて、楽しむ人なんです。これでは、演奏会でお客を唸らすなど夢また夢です。
また、合唱コンクールで上位に入る団体などは、非常に意識の高い人たちが多いのは確かです。しかし、その彼らですら、音楽をピッチや発声のような基準だけで判断しようとしてしまっているように見えます。現状のコンクールなんかで、本当の芸術としての洗練度などわかろうはずがありません。合唱と無関係な人を唸らせてこそ、本当の芸術の仲間入りとなるのです。
人をどうやったら唸らせられるのか、そこに個性が大きく関わってきます。厳しい市場に晒されることによって、自分たちはどういった音楽を、どのように表現するのか、というような「個性」を初めて意識せざるを得なくなるのだと思います。
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June 20, 2006
アマチュアとプロの差はなんだろう、とは良く言われる問いだと思います。
最近、私はこんなふうに考えています。アマチュアとは、演奏者自らの歓びを追求する人たちであり、プロとは、聴衆の歓びを追求する人たち、であると。
演奏者が楽しんで演奏すれば、きっと聴衆も楽しいはずだ、という意見もあろうかと思います。が、それは恐らく、きわめてアマチュア的な発想でしょう。
むしろ、聴衆の歓びと演奏者の歓びの差は何なのか、という問いをするべきです。例えば、演奏する曲目にそれは大きく反映されるでしょう。
アマチュア合唱の世界ならば、長い練習期間をかけて演奏会の準備をしますから、演奏者がその練習期間に耐えうるだけの曲を選びます。そういった曲には、テキストの格調高さ、シリアスさ、気持ちの込めやすさ、といった要素があるでしょうし、団の実力にもよりますが、歌謡性の高いものよりも厳格な音楽性を求めるかもしれません。また、編成の大きさも歌い手の満足感を高める大きな要素です。もちろん、こういう音楽が鑑賞に堪えうる物であるならば、アマチュア的であるとしても、十分価値のある音楽活動です。
しかし、日本中にこれだけの合唱団が存在し、そして毎年数多くの合唱曲が生産されているにも関わらず、合唱をしている人以外に、合唱音楽が聴かれないのはなぜでしょう?
それは、まさにプロの不在ゆえではないかと思うわけです。もちろんプロ合唱団は存在しますが、数が少なすぎです。これだけ合唱人口があるなら、それに見合う数のプロ合唱団があったっていいのに。
プロであるなら、演奏家がその音楽に満足しようがしまいが、聴衆の歓びを満たすことが要求されるはずです。だから私は、そういったことを基準にした合唱曲、合唱表現のあり方、指導者、そして演奏家がもっと増えて欲しいと思っています。そして、市場原理の中で、プロ同士が切磋琢磨するような状況が出来ないものでしょうか。
合唱界の有名指揮者の方々には指導者であるよりも、アーティストになって欲しいのです。
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June 09, 2006
せっかくハーモニーに載ったんだから、旬のうちに歌おう、ということで「E=mc^2 PartII」 をウチの団(ヴォア・ヴェール)で、静岡県の合唱祭(6/18)において歌うことにしました。
この楽譜を見て、「うわー、変な曲!」と思っている方も多いかと思います。確かに、世の中にこういう曲はあんまりないかもしれませんが、歌ってみると、それほど難しいわけではありません。
というか、この曲を歌うと、まるでソルフェージュの練習のような状況になります。# や b はそれほど多くないし、割と普通のダイアトニックスケールの感覚で音は取れます。ただ、テンポが速いのと、シンコペーション、3連符などリズムのバリエーションが結構あるので、パッと見て歌うには難儀するようです。そんなわけで、歌う側もかなりソルフェージュ力を試されます。逆に言えば、ソルフェージュ力を試すために、この曲を使ってみるというのもアリかも。
ほんとうは、もう少し曲の仕掛けを曲作りに繋げていきたいのですが、まだまだ音符を追うのが精一杯で、恐らく本番で十分に曲の面白さを表現できるかは厳しいかもしれません。それでも、「lae lae lae lae」を強調することで、聞いた感じの面白さは出てきますし、中盤から後半にかけての盛り上がりも、それなりに印象は与えられるような気がしています。あとは、各パートが落ちないことを祈るばかり。
ちなみに、この曲は、以下のようなイメージをもって作ったものです。
相対性理論の説明をするような本には、大概、ロケットが話の中に出てきます。ロケットでなくても、何らかの非常に高速で動く乗り物です(電車とか)。そして、このロケットから出した光はどうなるのか、というように話は展開します。その説明の中で、ロケットは観測者に向かって光速に近い速度で近づき、そしてすぐ横を通り過ぎ、また光速で去っていくのです。
この曲はいわば、自分に近づき、間近を通り、そして去っていくロケットの描写です。まるで、ある駅を通過する新幹線をホームで見ているような、そんなスピード感を想像してみてください。
実際、ハーモニーに載ったとはいえ、そうそう歌われるとは思えません。どうせ、変な曲だし~。
もし少しでも興味があるようでしたら、6/18に浜松のアクトシティ中ホールで、この曲が響き渡るはずですので、よろしかったらいらしてください。
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May 15, 2006
昨日、浜松ラヴィアンクールのFirst Concertが開かれました。
浜松ラヴィアンクールは、浜松にて活動する少人数女声アンサンブルグループ。現在12名。岸信介先生に指導を仰いでいます。
昨年も書きましたが、合唱コンクールの県大会で岸先生が都合が悪く、私が代わりに指揮をしたのがきっかけでこの合唱団とお付き合いするようになりました。
そして、昨日のコンサートでは、ラヴィアンクールの委嘱で女声合唱曲を初演することができました。初演の指揮は岸先生と思いきや・・・私。そんなわけで、昨日は出演者として、演奏会に参加することに。
その他の各ステージもバラエティに富んでおり、お客さんもたくさん入って、なかなかいい演奏会だったと思います。
さて、昨日初演した作品は「長田弘の詩による三つの女声合唱曲」という作品で、組曲というよりは、三つの小品というような感じで作りました。もちろんアカペラ。
しかも、今回の作曲は、自ら div.なしという制限を課し、三声だけでどこまで多彩なアカペラ表現が出来るかにチャレンジしました。自分で言うのもなんですが、詩の面白さもあり、3曲それぞれ特徴を持った楽しい曲になったと思っています。おまけに、それを自らの手で初演することになったので、なるべくその特徴を生かそうと思ったのですが・・・さて、演奏の方はどうでしたでしょうか。
アカペラですが、div.無し、ということで、一般の女声合唱団でも取り上げやすいと思います。ご興味のある方は、どうぞ遠慮なくお問い合わせください。
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April 27, 2006
合唱をやっていると、日本語以外の曲を歌う機会はたくさんあることでしょう。そんな折に、発音に迷うこともしばしばあります。多くの人が勉強しているはずの英語だって、歌の中ではかなり怪しい発音になっています(英語だからこそ、という面もありますが)。
外国語の発音に関わらず、より言葉をはっきりさせるにはどうしたらよいか、ということを突き詰めていこうとすると、音声が出る仕組みについて興味が向いてきます。
そういったこと全般を扱う学問を音声学といいます。もちろん、合唱との関わりも深いものと思われますが、私の周りで練習の場で音声学的なアプローチをした先生はあまりお目にかかりませんね。ちょっと、専門の学問っぽくなっちゃうので、みんなの食いつきは悪いかもしれません。
こういうことに興味を持つと、すぐに大雑把に知りたくなる性分なので、早速「音声学」の本を読んでみました。もちろん、あんまり難しくないヤツ。
音声学では、IPAという国際的な発音記号を用いて発音を表記します。パッと見ると、母音なんかそれっぽい文字なんですが、かなり分かりにくい記号もあって、これを覚えるのはちょっと難しそう。
ただ、全ての母音、子音が体系だてて整理されていて、「話す」というごく単純な行為も、これだけの多くの要素があることに驚かされます。私たちは、無意識のうちに、声帯や口蓋や舌、唇を巧みに操って、これだけの音を出していると思うと、ちょっと感動します。
そして、これをちょっと意識的に行えば、合唱の練習でもかなり有効なアプローチになるような気がします。
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April 20, 2006
さて、このハーモニー、肝心な部分を誤植してくれる困った機関紙ですが、面白い記事もあります。
春号の私のベストワン記事は、千原英喜氏のM4の曲紹介。
こんな文章を書ける人だとは知らなかったです。すごい才能。それに内容も面白い。
作曲家にはこういう高尚な(?)冗談系文章を書く人がたまにいますが、千原氏もそういう天性を持っている人なんだと感じました。これまで、どちらかというとお固いイメージがありましたが、この文章で一気にファンになりました。この調子で、万葉調とか、平安調とか、新しいパターンを期待したいところです。
しかし、よく考えてみると、千原氏の合唱曲って、単にテキストの素材が古いというだけでなく、それを自ら選択、構成しているという意味では作詞に近い行為をしているとも言えるのではないでしょうか。それに楽譜にも、本人による随分たくさんの解説文が載っていますね。
千原氏の合唱作品を眺めると、そこにある詩に単に曲を付けるという行為から、もう一段大きなレベルでの創作を楽しんでいるように見えます。一つの組曲には明確なコンセプトがあり、そのコンセプトに基づいて、ゼロから全体の構成を作りあげています。時に古文に、時にラテン語にと、素材の選択もまた自由自在であり、その発想は極めて豊かです。それは、声楽曲の作曲というよりは、むしろ器楽曲に近い考え方であり、その考えをもう少し進めれば、声は単に歌であるばかりでなく、音楽の素材だという側面も強調されるようになるわけです。
それが、邦人曲の中では新鮮に映ります。
シンプルでメロディに溢れているのに、どこか機能的で、理知的な感じ。素材の由来を抜きにすれば欧米の合唱曲に似たフィーリングさえ感じるのです。
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February 10, 2006
日本語ってなかなか子音の存在を感じるのが難しい言語なのかなと思います。
言葉の最小単位というのが、いわゆる「あいうえお」の五十音であり、これらはすでに「子音+母音」という形で構成されているため、子音のみが独立して存在することができないのです。英語でもドイツ語でも、語尾に子音のみがくることがあるし、一つのシラブルでも、子音が重複していたり、母音の後に子音が来たりすることもあり、言語の最小単位としての子音を意識せざるを得ないのではないでしょうか。
そのせいかどうなのか、日本人は子音の扱いがうまくないのではないか、という気がしています。
歌を歌う際、言葉を伝えるために、子音を立てて強調させたいこともあります。そういったときの対処が、もう一つ的を得ていないのです。
簡単に言えば、子音を強調しようとすると、単に息の量を増やして、力で子音を出そうとします。息の量が増えれば、子音だけでなく母音も強調されてしまいます。子音を立てるというより、そのシラブルだけ異常に強調されてしまうことになります。
子音だけを強調するにはどうしたら良いでしょう。私がよく言うのは、「強く」ではなくて「長く」です。息の量は変えないまま、子音をなるべく長い時間出せば、子音のみ強調されるはずです。
もちろん、そういう表現をしたとしても、感覚的にシラブルから子音要素を抜き出すことが出来ない人は、「長い」子音という感覚がどうも掴めないようです。その場合は、実際音にして、こういう風に歌って、と実例を示すしかないかもしれません。
発声練習の中で、子音の存在を感じさせるために、発語の練習を増やしてみてもいいかもしれませんが、まだ具体的な方法は思いついていません・・・
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February 02, 2006
もう少し具体的に、日本語の歌い方を考えてみましょう。
ここのところ私がこだわっているのは、文節をいかに浮かび上がらせるか、ということです。
一音符が一シラブルである以上、日本語はメロディに対して意味内容を表すのに大変冗長です。この冗長さが、場合によって言葉の意味を把握するのを困難にさせます。要するに時間が経たないと、単語が完成しないのです。
なので、歌い手は積極的に、文節を浮き上がらせ、単語を聞き取れるように歌ってあげる必要があるのです。
単に子音をしっかり、とか、口を大きく開けて、というだけでは、全部の音を明瞭にするだけで、文節を示すためのメリハリが付かなくなると感じます。言葉をしっかり伝える努力は、ときに逆の方向に音楽を向けてしまうのです。
ちょっと単純化してしまいますが、私は以下の点に注意したいと思っています。
1.文節の最初のほうにアクセントをおく
2.助詞の音量、音色を引き目に操作
特に、2は重要で、短い音符が連続するならやり易いのですが、日本語の曲の場合、助詞が長い音価の音に与えられることが多く、この音をどのように歌うかが聞きやすさの大きなポイントになると考えています。
例えば「わたしは~」と歌う場所があったとしましょう。「は」は助詞なのに、何拍も延ばす必要がある場合、この「は」はどう歌いましょうか?
私は、この「は」で膨らませて歌う人にはどうもセンスを感じません。「わたし」に比べて、「は」はもっと抑えたトーンであるべきで、仮に音価が長くても、そこはそう感じさせるように歌わなければ、「わたしは」という文節が浮かんでこないと思うのです。
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January 31, 2006
ハーモニーのタダタケ氏の連載は、結構その視点が自分にフィットして、共感を感じています。
やっぱり言葉をどう発するか、ということにすごく気を使うのですね。全体的に、具体的な方策より、その先は自分で考えてね、というような一般的な内容が多いのですが、それでも言葉を立たせて歌うために重要な示唆に富んでいると思います。
実は、一番伝わると思っていて伝わっていないのが母国語なのかと思ったりします。
たとえば、英語を話している場合、うまく聞き取れないと、聞き取れない自分をしっかり認識していて、だからこそ聞き返したり、愛想笑いで誤魔化したりしてしまうわけです。日本語の場合どうでしょう。意味をちゃんと理解してないのに「そうだよね~」「うん、うん」「へえ~」なんて勝手に相槌を打ってしまったりしませんか。
だから、話すほうも結構適当になる。さんざん長い話をしたのに、後で話した相手に聞くと、何にもわかってなかったりすることありませんか。
そういった、暗黙に相手がわかってくれるという安心が母国語にはあると思うのです。
コミュニケーション力に長けている人は、実際のところ、話し言葉の主語述語がしっかりしていたり、正確な言葉遣いをしたり、メリハリの利いた話し方をしています。それなりの技を持って、話をしているのです。
日本語の歌を歌うにも、そういった技があると思います。それは気持ちの問題なんかじゃなくて、出来る人は自然に身に付いているような、それでいて言葉で説明するのが難しいような、そんな法則があるはずです。
日本語だからこそ、逆にそういった技ではなくて、気持ちだけで解決しようとしがちです。そうならないように、言葉の発し方を、冷静に、かつ客観的に判断する力が演奏者に必要です。ハーモニーの記事は、その大切な鍵を紹介しているように私には思えます。
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November 29, 2005
最近あまり合唱のCDを買っていなかったのですが、新潟の全国大会では久しぶりに散財。
京都の世界合唱の祭典のCDとDVD、それからオスロ室内合唱団とノルディックボイセスのCDも購入。作曲家ではエリック・ウィテカーの作品集とマンチュヤルヴィの作品集、それから邦人のも一つ。
ウィテカーのも面白かったけど、マンチュヤルヴィのCDがとても良かった。
冒頭がいきなりプシュードヨイク、その他の曲もどれも興味深いです。分かりやすさと現代的な和声感覚、気持ちの良いリズムと私の好きな要素が詰まっています。中には執拗な繰り返しフレーズで、歌手泣かせの曲も。
CDのライナーノーツで作曲家の紹介も載っています。1963年生まれ。音大でなくて、ヘルシンキ大学で英語と言語学を学んだと書いてあります。職業も通訳とか、コンピュータシステムマネージャなんて書いてあります。その一方、合唱団で歌ったり、学生時代オーケストラでティンパニ、ピアノを弾いたり、指揮活動もしている。なかなかマルチタレントな人ですね。こういう人に憧れるなあ。
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November 22, 2005
今回の全国大会、大学Bの前半5つ、大学Aの前半4つ以外は全部聴きました。
最初の5つが聴けなかったのは、当日朝、浜松から新幹線で行ったのでしょうがないとしても・・・大学Aは、昼休み周りに食事する場所が見つからず、ホール内のレストランで待ち行列に繋がる羽目になり、聴くのはあきらめたのです。そんなわけで、大学の部の演奏のコメントは止めておきます。^^;
全般的には無伴奏化がますます進行し、いわゆる昔ながらのピアノ伴奏付き邦人曲はすっかり少数派となっています。これは私としては好きな傾向。
しかし、そのせいなのか、もう知らない作曲家のオンパレード。ほんとに、まあ、よくもいろんなところから曲を探してくるものです。もう、ニーステッドとかプーランクとかだと、保守的な選曲とさえ思えてしまいます。今年は特にそんな感じだったので、もう全部の作曲家をチェックするのは止めました。
今回の注目作曲家は、ずばりエリック・ウィテカー。2年前にESTが演奏したのが始まりかと思いますが、そのウィテカーを演奏した団体が今年は3団体。来年以降、流行りそうな予感。
というのも、今回圧倒的な印象を残したのが、岡崎混声合唱団の演奏したウィテカー作曲「レオナルドは空飛ぶマシーンを夢見る(Leonard Dreams of His Flying Machine)」。この曲、超カッコいい!題名だけでも十分興味をそそるのですが、曲は期待を裏切らない大変面白いものでした。
レオナルドとは、レオナルド・ダ・ヴィンチでしょう。彼が遺した飛行機のスケッチが、この詩のモチーフなんでしょうか。レオナルドがルネサンス人ということだからなのか、曲はまるでモンテヴェルディのマドリガーレのような雰囲気を強く感じさせつつ、現代的な技法と処理がときどき施されるという趣向。後半になって、リズムが付き、ノリノリの雰囲気になり、カッコいい盛り上がりを作ります。そして、最後は空飛ぶマシーンで消えゆくように、風の音だけが残るというシャレたエンディング。楽譜もCDもゲット。もちろん、自分の周りでは歌えるはずもないですが、作曲する立場としてとても気になる曲です。
さて、一般Aでは、私の一番のお気に入りはアンサンブルVine。素晴らしく整えられた発声とハーモニーで、ひときわ印象が深かったです。曲の雰囲気も非常に私の好みだし、最後の曲の演出も上質なもので、センスの高さを感じさせます。トータルのパフォーマンスとして、とても知的な印象を受けました。
CANTUS ANIMAE, ヴォーカルアンサンブルESTの邦人作品も注目の一つ。最も新しい邦人作品がどのような方向を向いているのか興味が湧きます。二つとも打楽器を使うという点も共通していました。2団体とも、非常に精度の高いアンサンブルを聞かせてくれて、曲の雰囲気を良く伝えていました。それだけに、演奏そのものよりも曲の内容に私自身の興味が移っていたのは事実。
正直に言うと、両曲とも打楽器を使いながら、ビート感が希薄な感じの曲だったのが残念。こういった傾向は前衛的な邦人作品全体に通じるものがあるように思いますがいかがでしょう。
それ以外で印象深かった演奏として・・・
松下中央合唱団の自由曲は良かった。確か、ノースエコーが以前演奏した曲ですね。聞く側にもかなりのテンションを要求しますが、その張り詰めた雰囲気が大きな印象を残しました。
ちょっと毛色が違うところとして、創価学会しなの合唱団もなかなか好印象。東京代表ながら、しなのとはこれ如何に。それはともかく、日本語を非常に彫り深く表現していたのが印象的。信長さんの曲も素晴らしい。
全体的には、面白い団体が関西、中部方面に集中している感じ。関東勢全盛だった数年前とはまた違った雰囲気になってきました。
来年は熊本ですか・・・。自費で行くのはきついなあ。(^^;;;
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November 21, 2005
週末、新潟の合唱コンクール全国大会に行ってきました。
ここ3年連続で全国大会に行っていましたが、今年はまた別の意味で、全国大会に参加することになりました。
といってももちろん演奏する側で行った訳ではありません。すでにご存知のことと思いますが、拙作が朝日作曲賞の佳作になったため、全国大会の場で行われる表彰式に招待されることになったわけです。
98年の福岡のときも「だるまさん」の受賞で、全国大会に行ったわけですが、そのとき以来2回目の、チケット代、交通費、宿代連盟持ちの財布の心配のいらない旅となりました。ちょっとばかり優越感。
さてさて、そんなわけなんで、昨年の愛媛のときよりも、いろいろと感慨深い全国大会になりました。
いろいろな方とお会いすることができて楽しかったです。でも、なかなか気の利いたことが言えなかったけれど。
というわけで、演奏云々の前に、今回出会った方たちの紹介をしたいと思います。
●合唱連盟の皆さま
事務局長の田辺さんを始めとして連盟の皆さまにはお世話になりました。実際、私、ただステージで賞状をいただくだけなんですが、いろいろと気にかけていただきありがとうございます。
連盟の方に、演奏審査で私の曲を歌ったという方がお二人いて、ちょっとお話してくれました。結構、私の曲を気に入ってくれたというような話を聞くと素直に嬉しいですね。私の正直な気持ちは、演奏審査のときだけしか歌われないなんてもったいない!ぜひ、どこかでまた歌って欲しい、といったところですが・・・何とかならないかなあ。
●朝日作曲賞の山内さん
一緒に賞状をいただいた山内さんとも初めてお会いしました。音大で音楽を教えている本職の方。うぅ、すでに十分貫禄がある感じなんですが・・・。むかし吹奏楽をされていて、やはり器楽中心の作曲をされるようですが、今後、合唱の作曲も増えるのではないでしょうか。
●昔の仲間
島根のゾリステンアンサンブル(今年は残念ながら全国には行けなかったようですが)のS氏、それから合唱団KMCで参加されていたK氏など、以前静岡にいた合唱仲間と会いました。
●全国大会で会うネット友人たち
あげさんとか、GiovanniのTachanとか・・・
●メールやり取りをしていたけど、初めて会った方
会津混声のOさん、お声をかけていただきありがとうございます。「だるまさん」のときはお世話になりました。また、ぜひ拙作を取り上げて欲しいなあ・・・。会津混声は私の好きな団体の一つです。
今年、北海道代表になった QuaterNotes の指揮者の皆川さんとも会いました。私の古い女声合唱曲を札幌で初演してくれました。そんな彼らが全国大会に来たのは、なんだか嬉しいですね。演奏も非常に声が揃えられていてその精度の高さはすごいと思いました。
●松崎さん
ご存知の方もいると思います。以前、朝日作曲賞を受賞したこともある作曲家の方。4年前の上野の森コーラスパークで、私と一緒に入賞しました。新潟在住で、実は今回の全国大会でちょっとした仕事をされていたということで昼休みにお会いしました。拙作もお渡ししたので、また批評などいただけるのを楽しみにしています。
●ESTの皆さん
数年前の宝塚の圧倒的な印象以来、大ファンであるヴォーカルアンサンブルESTの皆さんと、今回ちょっとばかりお近づきになることができました。というのも、私の大学の先輩が最近ESTに参加されていて、全国大会の打ち上げにおいで、と誘われていたのです。
そんなわけで、土曜日の夜にESTさんの打ち上げに紛れ込ませていただきました。作曲家の鈴木輝昭さん、合唱界重鎮の洲脇さんなども来られてびっくり。しかし、やはりESTって凄いなあと、打ち上げのノリの中でも感じました。本当にみんな練習好きだと先輩にも聞かされましたし、一人一人の合唱への想いというのが本当に強いんですね。今後とも、ますます楽しい合唱を聞かせて欲しいと期待しています。
指揮者の向井先生にも、ご迷惑かもしれませんが今回の受賞作をお渡しいたしました。またよろしければ、音になったらいいなと・・・いや、そんな大それた事は言えません。
それから、昨年と2年連続で全国出場を果たした浜松合唱団の(良く知った)面々も辺りにうろうろしていて、なんだかはるばる新潟に来たという印象が薄れてしまいそうでした。おまけにウチのヴォア・ヴェールの団員が3人も全国見に来てました。休み時間、ロビーに出れば誰か知り合いと会うというそんな感じの大会でした。
あと最後に、今回の会場のりゅーとぴあは素晴らしいホールです。
音響も品があるし、曲線中心のデザインもなかなかのもの。世の中からは無駄な公共事業と言われそうですけれど。
それでも、こんな音楽専用の立派なホールで全国大会ができるのはとてもよいことだと感じます。全国大会は持ち回りになっていますが、年によってホールに差があるので、そのあたりも何とかならないかなあ、とちょっと感じました。こんないいホールがあるなら、毎年新潟だっていいと思うんですよ。
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October 25, 2005
日曜日、アンサンブルムジークの日独交流コンサートが浜松アクト中ホールで開催され、出演してきました。
アンサンブルムジークは女声合唱団ですが、今回は男声も集め、ドイツから来た合唱団とジョイントで演奏するという企画です。
合唱の曲目はメインがメンデルスゾーン作曲ラウダシオン、あとモテットの"Mitten wir im Leben sind"も歌いました。
はっきり言って、音楽的な好みがますますロマン派から離れている今、メンデルスゾーンなんてもっとも縁遠い状態なんですが、やはり歌ってみるとなかなか面白いんですね。ラウダシオンは全体的にメロディがキャッチーで、印象的なフレーズも多いです。曲もバラエティに富んでいます。それでも、やはりロマン派的な雰囲気が色濃く漂っていて、正直もう少し刺激のある音が欲しいよな・・・とは感じていましたが。
今回、実は一番歌っていて楽しかったのは8声のアカペラのモテット"Mitten wir im Leben sind"
この曲はいい!確かにロマン派的な雰囲気はあるのだけど、不思議にアカペラのモテットとなると、メンデルスゾーンもメロディをメインにするような書き方はしないのですね。重層的なポリフォニーの世界と、時々各パートに現われる印象的なフレーズが良くマッチした、非常に素晴らしい合唱曲です。長さは8分くらいでしょうか。コンクールでも使えそうな曲。
本番直前にドイツ人が加わったりしたので、演奏の精度自体は決して高くは無かったかもしれませんが、シビアなアカペラ合唱の醍醐味を味わいました。
本番後の打ち上げも楽しかったですね。ドイツ人との交流大会となりました。お互いにいろいろな曲を歌いあったり、片言の英語でいろいろ話したり。このパーティが練習開始以来、一番楽しかったという噂も。
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October 19, 2005
音量バランスというのは、どんな音楽ジャンルであっても、最も大事なものであり、音楽をやる者なら誰でも苦労していることの一つです。レコーディングの場でも、最後にミックスダウンという作業があって、ここで各パートの音量バランスを丁寧に調整して、一つの音楽にしていくわけです。PAを使ったコンサートでも、専門のPA担当者が本番中にも慎重に音量調整やイコライジングを行っています。
これがナマのアンサンブル音楽の場合、つねに演奏者が自身の演奏状況を把握し、フィードバックをかけ、音量調整をしなければなりません。しかし、レコーディングやPAのプロの世界に比べると、それは何とも心もとないように思えます。
実際、人数が増えて大編成になってくると、もはや演奏者には全体の音響を把握しづらくなり、一人一人の調整では効かなくなってきます。ここで指揮者の指示が必要なわけです。指揮者が練習やリハーサルを通して、音量の指示を出したなら、当たり前のことだけど演奏者は忠実に守らなければいけません。
演奏者は常に、自分の耳に聞こえる音と、聴衆に聞こえる音が違うことを意識しなければならないし、その違いを指揮者の指示を通して、理解する努力が要ります。これも指揮者視点で歌うことの一つではないでしょうか。
そうはいっても、音量バランスは繊細で難しい問題。指揮者視点といっても、実際に音を聞けるわけではないから、頭の中で想像するしかないのですが、今度はその想像力の質が問われることになってしまいます……
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October 18, 2005
私はベースですが、合唱におけるベースの泣き所は高音ではないかと思います。男声の場合、あきらかに実声と裏声の変わり目がはっきりしている人が多く、その直前の音域では咆え声になる人は結構多い。小さな音量で実声で高音を出すのは、恐らくベースが一番下手なのではないでしょうか。(あくまで一般的に)
曲にもよりますが、そういった箇所ではどう歌うべきでしょう。きちんと歌えない自分がいやで、意地でもきちんと歌おうと頑張る人もいることでしょう。確かに3回に1回くらいの確率できちんと歌えるかもしれないけど、それじゃ演奏を聞かせるには忍びない。
もちろん、指揮者の指示があればそのとおりにすべきですが、うまく歌える確率が低い場合、あえて歌わない(あるいは、裏声で抜いてしまうというような)という選択肢もあるはず。もちろん、歌い手としては困難から逃げているように感じるかもしれません。それでも、無理して歌うより歌わない方がまし、ということは、正直あると思うのです。
実際、歌わない、というのは極端すぎますが、それでも今合唱団全体の中で、自分がどのような音を出すべきかということを考えて歌えば、別の歌い方がある場合だってあります。ただ、そのように団全体の音楽を考えて歌うのはそんなに簡単ではないと思います。
恐らく、そんな風に考えることができるのは指揮者経験者だけじゃないかとも思えます。指揮をしたことがある人は、指揮者が何に苦労するかも知っているから、歌い手として不本意なことでも受け入れるだけの素地があるのです。
ときどき、自分の声楽的満足感を満たすために合唱をやっているような人も見かけますが、実はそういう人が一番たちが悪かったりします。いい演奏のためには、もっと一人一人が指揮者の視点で歌うべきなのですが、それを実感してもらうにはどうしたらいいのでしょうね。
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October 08, 2005
ハーモニー秋号が来ました。今回はもちろん世界合唱の祭典の記事がほとんどだけど、そんな中で朝日作曲賞の記事も載っています。
応募者としては、いろいろな情報が書いてあるこのページは年に一回のもっとも気になる記事の一つです。組曲公募になって応募数が減ったのが、まただんだん増えているなあ、とか、女声男声混声の比率とか…。審査員のコメントも一字一句が気になります。去年に続き、拙作が演奏審査に残ったので、恐る恐る自作品の評価を読みました。
今年は岸先生がコメント書いていてびっくり。でも比較的好意的な内容でしたね。「複雑すぎる」というのは、全くそのとおりで(^^;)、作曲コンクールとの付き合い方には未だに悩みの連続なのです。確かに、送る前から『ちょっとやり過ぎかなあ』とは思っていたんですが。
拙作の題名や各曲名を見てびっくりした人もいるかもしれません。
組曲自体が結構ネタ系なんですが、こういう曲ってなかなか日本にないと思うのです。今年は、相対性理論発表から100年を記念して世界物理年と決められましたし、そういう意味で、思いがけずタイムリーなネタにもなりました。一見風変わりなテーマですが、こういう題材こそ、合唱エンターテインメントの可能性を拡げるのではないかという思いもあります。音楽的にもいろいろと冒険をしています。
そんなわけですので、この曲に興味がある方、Don't hesitate to contact me!!
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September 25, 2005
以前こんな記事を書いてしまったせいなのか、ある演奏会の字幕操作係の役を頼まれることになりました。
その演奏会とは、浜松バッハ研究会創立20周年記念演奏会であるバッハの「マタイ受難曲」。いまさら言うまでも無いバッハ畢生の大作、そして最も字幕をつけて聴きたいと思われる合唱音楽であります。
今回はアクトシティ浜松の中ホールに、ホール奥のパイプオルガンを覆い隠すほどの大きなスクリーンを出し、パソコンでパワポの書類を表示する、という形です(まさに、私が以前書いた話)。パワポの書類自体は団員の方が作成したので、私の役目はその構成に従ってパソコンのカーソルキーを押すことでした。もちろん、事前に資料は頂いていたので、通し番号を自分の楽譜に全部書き写しておきました。驚くなかれ、パワポは全部で441枚。全曲で約3時間とはいえ、この切り替えは結構忙しかったです。楽譜を追いながらですから、気分は演奏家みたいなものでした。
私がいた場所は、ホール後方にある映写室。窓から会場全体は見えるのだけど、ナマの音声は完全にシャットアウト。音は全てモニターです。それからプロジェクターが熱を持つせいなのか、部屋は冷房で相当冷やされていました(意外とつらかった…すぐトイレ行きたくなるし)。
ナマの音声でないのがやりづらかったのは、意外な盲点でした。
モニターの音量も十分でなく(本番ではモニタースピーカを追加してもらった)、ステージの息遣いがいまいち私まで伝わらないのです(しかもプロジェクタのファンの音が結構うるさい)。視覚はナマでも、音声が電気を通しちゃうと、その場所はどうも演奏とは別世界になってしまい、自分が会場全体に字幕を見せているんだというリアリティがとても薄く感じられてしまうのです。ホール内にいないので映写室で一人、カーソルキーを叩いても、どこからも反応がなく、すごく不安になります。でも、世のPA屋とか放送局とかの人たちってそういう状況できっと仕事しているんですよね。
さて、肝心の字幕操作ですが、正直言いましょう。三箇所間違いました。_ _;
そのうちの二箇所はほとんど気付かれていないようでしたが、一箇所、バラバを赦免するくだり、エヴェンゲリストのセリフを楽譜一段分(3小節くらい)早く出してしまった・・・。後で何人かに指摘されました。ごめんなさい。
個人的には、字幕を出すタイミングをいろいろ考えたつもりでしたが、あんまりみんな意見してくれなかったなあ。自分が思っているほど、そんな微妙じゃないのでしょうか。
私は、曲頭では指揮者より先走って出さないように、逆にエヴェンゲリストが歌う聖書句の部分は、映画の字幕っぽいタイミングを心がけたのですが…
演奏会は、お客もかなりたくさん入っていたようです。演奏はいくつか事故はありましたが^^;、なかなか熱い演奏だったのではと思います。私も、なかなか体験できないことをさせてもらい、楽しかったです。ありがとうございました。
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August 29, 2005
これまで私が指揮した団体は、全て仲間で立ち上げた合唱団ばかりで、いわゆる団員扱いで指揮をしているものばかりでしたが、昨日の合唱コンクール静岡県大会で、浜松ラヴィアンクールという女声合唱団の雇われ指揮者をさせていただくという体験をしました。もともと岸先生が振っている団体なのですが、この日、別の催しで先生が来れないということで、なぜか私が代役を務めることに。
本番を含め計5回の練習。かなり精鋭メンバーとは言え、女声10人というのはコンクール的には不利だし、当たり前だけど、女声合唱団の指揮って初めてなので不安はあったのですが、それでも面白そうという好奇心のほうが先に立ったのは事実。
それに、自由曲のフェルミの曲がなかなか気に入りました。曲の作りがシンプルなのだけど、決して安易ではないし、むしろ随所にシブい音の配列があります。曲調もシリアスでなく、音楽そのものの楽しさを強調した感じで、うまく歌えばかなり印象深い曲だと感じました。
大まかには岸先生の作りを踏襲したつもりですが、まあ指揮の見栄え自体が全然違うし(^^;、若干、好きにやらしてもらったので、最初は団員のかたも戸惑ったかもしれません。どうもご迷惑をかけました。
心配された結果でしたが、幸いなことに金賞・県代表になりました。とりあえず責任は果たしたかな。おまけに、個性的な演奏をした団体に贈られる中村賞を頂くなんていうオマケもつきました。
練習途中、うまく指揮できないフレーズがあったりしてあせったりもしましたが、全体的には結構楽しくやらしてもらいました。何より皆さんお上手で、私が言ったことにきっちり対応してくれたのはとても嬉しかった。こういう団体で指揮できるのはやはり気持ちいいですね。
久しぶりに女声合唱曲でも書いてみようかな・・・
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August 15, 2005
合唱におけるエンターテインメントの話題、微妙にホットな感じなので、調子に乗ってもう少し考えてみましょう。
たいてい合唱団の演奏会でエンターテインメントといえば、流行曲やアニメソングなどの合唱アレンジのステージといったところでしょう。もちろん、これだって構成やアレンジや演出に凝れば、質の高いエンターテインメントのステージを作ることができるはずです。まあ、たいていはそこまで出来る人材が団内にいないわけですが・・・
実際、エンターテインメント=お楽しみステージ、みたいな発想では、上のような選曲のステージをすることくらいしか思いつかないのですが、私の言いたいところのエンターテインメントというのは、もっと根本的な演奏に対する表現者の姿勢のようなものなのです。
簡単に言えば、聴衆を、すなわちお客様を、どれだけ満足させられるか、というこの一点につきます。全ての考え方をここから逆算して考えるのです。
ですから、当たり前ですが、美しい発声で歌うことも、正しいピッチで歌うこともエンターテインメントにつながります。それは聴衆に感銘を与える演奏になるからです。
そして何より大事なのは、今演奏する曲の内容を聴衆にしっかり理解してもらうことです。曲の理解なくしてお客様が楽しめるわけがないのです。その辺りをショートカットしたいという誘惑が、ポピュラーステージに繋がる訳ですね。
だから、歌い手が曲を理解していなければ、お客が理解できるわけが無いし、誰も理解できない曲なら、そもそも演奏する必要などないのです。
曲の内容を伝えるために、例えばちょっとした演出があったり、所作があったりしたって構わないのです。お客が曲を理解する補助になるのなら、どんなことでもするべきです(ちょっと前に盛り上がった字幕とか)。
先日のノルディックボイセスの現代曲も、(正直意図はわからなかったけど)演奏の演出が楽しくて、お客を十分に引きつけることに成功していました。バリバリの現代曲だって、良質なものなら多くの人が楽しめるはずなのです。それでなければ、演奏会でやる意味がない。現代曲は難解、という発想そのものが私は嫌いです。演奏する側も聞く側も理解できない音楽にどんな楽しみがあるというのでしょう。まあ、わからないことを楽しむというひねくれかたもあるのかもしれませんが。
聴衆に感銘を与える、満足してもらうためには、もちろん様々な局面があります。
ほとんどの聴衆が日頃合唱を聞いていない人ならば、今自分たちが披露しようとしている合唱曲の魅力をどのように伝えるのか、それをもっともっと考えなければなりません。それは、自分たちがさらに合唱について勉強することにもつながります。
そして、そのもっと前の段階、そもそも選曲の段階で、聴衆に楽しんでもらえる曲を選ばなければなりません。これが今のところ最も大きな問題です。聴衆まで楽しんでくれるような合唱曲が、今の邦人曲にどれだけあるのか、と思うかもしれません。でも、たくさんあるはずですよ。それを探す眼こそが、技術スタッフに求められているのです。
不肖、この私も、エンターテインメント性を求めた曲を作り続けているつもりなんですけどね・・・
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August 03, 2005
世界合唱の祭典で、日本の団体が演奏した曲目は、やはり民謡をベースにしたものとか、日本的な素材を元に作曲されたものが中心になりました。
しかし、よくよく考えてみると、こういった曲って、それほど日頃合唱団で歌っているわけではないんですね。むしろ、敬遠されがちと言ってもいいでしょう。実際、日本で歌われている合唱曲の多くは、現代詩人の書いた詩に、ピアノ伴奏付きのドラマチックな音楽をつけたものが主流です。しかし、そういった音楽が、このシンポジウムで紹介されないのなら、私たちが日頃楽しんでいる合唱活動は、世界の場に持っていけるものではないことを暗に仄めかしているような気がしてしまいます。
そういった二重構造にどこか釈然としないものを感じます。
確かに、日本的な素材を用いた合唱曲の方が外人ウケは良いでしょう。しかし、だからといって日本人が世界に通用するために、そういった民族系のものをやるべきだと考えるのは、むしろ逆説的に西洋史観的な立場に立っているように思えてしまいます。
欧米人が、純日本的、あるいはアジア的、アフリカ的、のようなエキゾチックなものを楽しみたいと思うのは、意識の裏に、中心に対する"周辺"と感じる気持ちがあるように思います。少なくとも合唱を含めたクラシック音楽は西洋中心に発展してきたわけですから、誰とても西洋中心史観で見てしまうのは当たりまえです。
こういった態度は例えば、西村朗氏の作曲態度に非常に顕著に思いました。彼は日本的、アジア的なものを作曲の中に取り入れることを、自身のアイデンティティとしています。しかし、そういった発想こそ西洋中心史観のたまものとも思えるのです。海外で三島由紀夫がよく読まれるのと同じ構造です。無論、芸術的価値が高いものであれば、どんなアプローチであっても最終的には構わないでしょうけど。
なんだか否定的な言い方になってしまいましたが、何が正しいのか断定するつもりはありません。
ただ、私としてはありのままの自分たちを見てもらい、そして評価してもらいたい。民謡の世界にどっぷり浸かって生活しているのならともかく、そうでないのなら、自分たちの好きな歌を歌えばいいと思います。他人が面白いと思うものを先回りして考えすぎてしまうと、その意図が透けて見えた場合、何だか居心地の悪さを感じます。
本当に自分の心から伝えたい言葉が見つかったときこそ、クールかつホットな演奏ができるのではないでしょうか。そして、そのときが本当のスタートラインになるような気がするのです。
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August 01, 2005
私が聞いたワークショップは、既に紹介した鈴木雅明氏の「バッハのモテット」以外は、「日本の合唱音楽」(新実徳英/松平頼暁/中村透/西村朗)、「ラテンアメリカの合唱音楽」「アジアの合唱音楽」に行きました。
ナマの作曲家を拝みに行こう、というのが基本的な動機。だけど、ほとんど日本人相手に、講師も慣れない英語でしゃべるというのは正直厳しかったのも事実。ただ、それぞれの作曲家の人となり、考え方、方向性を知ることが出来たのは良かったと思います。
ラテンアメリカの合唱では、本国の出版状況が良くないという点について、さんざんこぼしていました。自国の作曲家が曲を書いても、アメリカに行かないと楽譜が買えないという状況らしい。そういう国もあるのですね。ブラジルの合唱曲はいずれもリズミカルな楽しさを強調したもので、アンコールで使えそうな面白い曲を皆で歌いました。
アジアの合唱では、韓国の作曲家の自作品紹介と、台湾のブヌン族の倍音唱法のレクチャーでした。倍音唱法はマジですごかったですよ。パソコンでスペクトルアナライザ(音声の周波数分析)を立ち上げて、リアルタイムにグラフを見ながら倍音を制御した声を聞かせてくれました。人間の声で高次倍音をあんなように制御できるとは驚きです。口の中の空間を舌で二つに分割したりして、特定倍音を出すのだそうです。電子楽器でレゾナンスをいじったような電子的な音が鳴っていました。でも、相当修行しないと、体得出来なさそう・・・
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コンサートの中で飛びぬけて印象が強かったのは、いずれも北欧の合唱団。
まずは、初日のオスロ室内合唱団。もう曲がいいとか悪いとか、そんな問題じゃない。音色だけで人を感動させられる、というのはとんでもないことです。本当に、ただのドミソがハモっただけで、澄み切っていて、それでいてストレートな響きのある声で、もう涙が出そうなくらい感動。ビンビンに鳴ったまま、ピアノからフォルテまで変幻自在に声がコントロールされているのです。全ての曲が一つなぎになるような、クールでシャレたステージングもまたよかった。大体ですね、皆んな背が高くてかっこいいんですよ。指揮者も長身ですらっとした(ちょっと攻撃的なイメージの)女性で、これがまたかっこいい。民謡ベースのシンプルな曲が中心だったのですが、その圧倒的な響きにもうただただ驚いていました。こんな声は、絶対日本人には無理です。正直、世界との壁を感じてしまいました。
もう一つ、面白かった団体は、同じくノルウェーのノルディックヴォイセス。ここは6人のボーカルアンサンブル。古楽から現代まで抜群のアンサンブルセンスで軽々とこなします。初日の「鳥の歌」では、もう鳥の歌声で、これでもかというくらい音楽を崩していくのに、アンサンブルの骨格が崩れないのは、もう一言プロの技としか言いようがありませんでした。土曜日に演奏した現代曲も面白かった。はっきり言って歌ではなくて、パフォーマンスに近いのだけど、彼らのプロとしての演奏魂に触れた気がしました。当然のことながら、一人一人がソリストとして活躍できるほど素晴らしい声の持ち主なのだけど、ひとたびアンサンブルになると、これが一糸乱れぬディナーミク、アゴーギグを聴かせます。この団体が根本的に持っているユーモアセンスも堪能。この芸風は、キングスシンガーズにとても近いものを感じました。
ちょっと特殊ものですが、デンマークのヴォーカルラインはマイクを使った合唱団。いわゆるヴォイパ付き。アカペラだけどなぜか30人近い人数。もちろん、一人一人がかなりの実力ですが、マイクワークも相当研究していると思いました。私自身はマイクを使った合唱の可能性というのは興味はあるのだけど、残念なのは彼らが単なるポップスのアレンジに留まっている点です。演奏した曲もミディアムテンポが多く、曲のバリエーションに乏しい感じがしました。マイクを使うからこそ、もう少しレパートリーの可能性を追求して欲しい気がします。例えばアディエマスみたいな・・・
北欧以外の演奏では、コンゴのラ・グラースとか、インドネシアのパラヒャンガン大学が、歌と踊りで楽しませてくれたのが印象的でした。人を楽しませるということをきちんと追求している姿勢は見習うべきだと思いました。
結局、私が思ったのは、日本の合唱にはエンターテインメントが足りない、ということです。アマチュア中心、コンクール中心という日本の合唱界の現実が、演奏活動をますます内輪なものに、そしてシリアスなものへと変えてしまいます。どうやったら聴衆が楽しむのか、そういう最も基本的なことを外国の合唱団から学んだような気がしました。今回の合唱の祭典がきっかけにそういう機運が日本に高まればいいのですが・・・
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July 31, 2005
かねてから日本で一番うまい合唱団だと、私が個人的に勝手に思っているBCJが、今回の合唱の祭典に参加しました。
BCJはご存知の通り、鈴木雅明氏が指揮を務めるバッハを演奏する団体。なんと、演奏会に先立ち、指揮者である鈴木雅明氏がワークショップにてバッハのモテットの演奏に関する講義を行いました。もちろん、私はこれを聴きに行きました。ワークショップの部屋はちょっと狭くて、立ち見が出るほどの盛況でしたし、多くの方が大変興味を持って来られたことが実感できました。
何といっても、鈴木雅明氏のレクチャーは大変うまかったと思います(私が参加したワークショップの中で一番よかった)。英語が極めて堪能で、そもそも、人前でしゃべるのが大変うまい。私にとって良かったのは、それでも日本人の英語ということで(発音がわかりやすい)、かなり聞き取りも出来たこと。ま、相当、頭をつかいましたけど・・・
このワークショップの凄かったことは、BCJのトップクラスの歌い手が参加しており、生演奏付きでの曲解説になったこと。セミナーの演奏で、こんなむちゃくちゃうまい演奏聞けるなんて、誰も思ってなかったと思います。
個人的に印象に残った話としては、ドイツ語を母語にしない我々だからこそ、歌い手に質問されてもちゃんと答えられるように調べたりするので、逆に理解が深まるきっかけになる、と言っていたこと。必ずしも日本人がバッハを歌うことをハンデとは思っていないところが素晴らしい。知的なアプローチが必要だからこそ、曲や歌詞について調べざるを得ない環境にいる彼らが良い演奏をできるのだと思いました。
最後の質問コーナーで出た話も面白かった。BCJがヨーロッパで演奏会を開いた際、ほとんどのジャーナリストが絶賛してくれたそうですが、一つだけ批判があったそうです。いわく「あまりに言葉をはっきり言い過ぎている」。本人たちは、言葉をはっきり出すことに一生懸命になって練習していたのに、それが思わず批判の言葉になってしまった、というのは、ある意味、彼らの努力が報われたといえるのかもしれませんね。
そして、その夜のBCJの演奏は本当に素晴らしかった。
私がなぜ、彼らの演奏を素晴らしいと思うのか。BCJの合唱団員一人一人は、ソロでもやっていけるほどの優れた歌手です。実際彼らの何人かは曲中でソロを取っていました。しかし、ひとたび、合唱のパートの一人となると、アンサンブル重視の歌い方にきっちりと切り替え、ボリュームバランスや、パート内の揃えなどに最新の注意を払っているのがよくわかるのです。
究極の合唱には、歌い手個々人の知性がどうしても必要です。BCJはその事実をあらためて我々に突きつけているように思うのです。
もちろん、レパートリーが限られている、というのも、演奏の純度の高さの一要因ではあるでしょう。それにしても、あれだけのメンバーを揃えているこの団体は、もう日本では最高レベルの合唱団の一つであると断言できます。
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7.27~8.3にかけて開催されている世界合唱の祭典(第7回世界合唱シンポジウム)の、前期日程に参加してきました。今日日曜日がちょうど折り返しで、月曜日からまだ三日間、合唱漬けの日々は続きますが、後ろ髪を引かれる思いで帰ってきました。
それにしても、前期だけでも、超濃かった。一つ一つの演奏が本当に興味深くて、毎日毎日が感動の日々です。少し言い過ぎのように思われるかもしれないけど、これは参加者みんなの実感ではないでしょうか。前期だけでも、ガラコンサートを含め、計7回のコンサート。どのステージも印象的だったけど、あまりに多すぎてどんどん前の演奏の印象が薄れていってしまいます。それはそれで贅沢な悩みという感じ。
ワークショップもいろいろ刺激になりました。全部英語というのは確かにきつかったけど、分かりにくさは自分の聞き取りレベルの低さだけの問題だけではなかったように思います。それでも、それぞれの講師が工夫を凝らし、講義だけでなく演奏、映像などを使ってやってくれたので、話の流れくらいは皆つかめたのではないでしょうか。
ワークショップとオープンシンギングの会場は京都国際会館、コンサートは京都コンサートホールで行われました。ちょっと奇妙だったのが、ワークショップとコンサートの合い間の度に、地下鉄に乗る民族大移動が行われること。近場に住んでいる方にはいい迷惑だったかもしれません。日本人だけでなくて、外国人も含めて、みんな首から名札をぶらさげて、地下鉄の改札口から大勢で移動するのは妙な風景でした。
京都コンサートホールは初めて行きましたが、素晴らしいホールですね。合唱の良さを十二分に発揮できる場所だと思います。こんなホールで、世界中の一線級の演奏を聞けたことは本当に幸せなことでした。
さすがに一週間、会社を休みのは厳しいので、私は前半のみの参加としました。そんなわけですので、前半の内容の印象深かったものについて、何回かにわたって紹介したいと思います。
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May 31, 2005
先日、某演奏会を聴きに行って、ふと思ったのです。
合唱のコンサートこそ、字幕があったらいいんじゃないでしょうか。
ポリフォニーなら歌詞を聞き取ることはまず不可能だし、そうでなくても外国語の歌詞を聞いて意味まで理解できるなんて通常の合唱コンサートではあり得ないと思われます。もちろん、そのために歌詞対訳をプログラムに入れたりするわけですが、演奏中は暗くなって読めないし、事前にしっかり読んでいる人もそう多くはないはず。
もし、演奏中に何らかの形で舞台上のどこかに字幕で歌詞を表示したら、視線もそのままで済み、多くの人がそれを見るのではないでしょうか。曲の進行と歌詞表示をリンクさせれば、曲が詩の内容を表現しようとしていることをより直接的に観客に伝えることが出来るはず。せっかく、詩の意味を考えて練習してきたのだから、その成果をきっちり聞いてもらいたいものです。
何度か言っていますが、観客の立場で演奏のことを考えることはとても重要です。そのためには、観客が自分たちの演奏をより理解してくれる方法を考える必要があると思います。少なくとも、団員にチケットを買わされた一般の人々にとっては、外国の合唱曲なんてほとんど聴いたことがないような曲ばかりなはず。であれば、プログラムの説明だけでなく、もっと積極的に観客にアピールする方法を探しても良いと思うのです。
最近だと、プロジェクタとスクリーンのセットも割と一般化しているのではないでしょうか。自前で買うのは大変ですが、借りるくらいなら何とかなるかも。後は、パワポかなんかで歌詞表示をPCで作って、本番は誰かにオペレータをやってもらう、というのはどうでしょう。やっぱり、ちょっと大掛かりかな・・・
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May 21, 2005
曲の構成は大まかに、1番-2番-3番-コーダ、となっています。突然の変化を要求される音量記号も、良く見てみるとそれぞれの番で共通になっています。いずれも真ん中に pp->mf->pp->f という変化があるのです(若干の違いはあります)。そういう意味では、演奏者は、この1番、2番、3番の繰り返しを鮮明に表現すべきかどうか、をまず考える必要があるかもしれません。(もちろん曲調が一様なので、変にいじくるより同じ調子で突っ走る方がカッコいい、というのアリでしょう)
もう少し、ミクロ的な視点で楽譜を見てみます。
私が気になるのが、歌い手にはかなりきつい音程の跳躍です。プーランクの曲の一般的な傾向として、こういう書き方は良くみますが、この曲は顕著です。ベースにおける7度や9度の跳躍など、歌い手としては泣けてきます。
練習番号3からの内声は、場合によって声部が交錯します。同じ和音を鳴らすなら、もっと簡単に書けるはずなのに、声部を交錯させてまで音程を跳躍させているというのは、教科書的には褒められたものではないはず。この心はどんな風に汲んだらよいでしょう?
プーランクのいたずら心とか、歌手への嫌がらせっていう理由もアリかも。部分的にはそうとしか思えないような場所もありますし・・・
ただ、全体的にアップテンポの派手な曲であることを考えると、曲全体が持つ鋭角的な表現を、難しい跳躍を入れることによって敢えて演奏に要求しているようにも感じます。まあ普通はこういう善意な解釈をするんでしょうが。
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May 18, 2005
たまたま今、某団体で練習しているプーランクの「Hodie Christus natus est」の楽譜を私なりに読んでみようと思います。
私自身はプーランクの研究家でもなんでもないので、下記の内容の正否は保証しませんが、私ならこう読む、といったレベルの話だと思っていただければよいかと思います。
さてこの曲、比較的演奏機会も多く、コンクールなどでも良く聞きます。近代曲のなかでも、かなりメジャーな部類の曲なのではないでしょうか。
歌詞も有名なもので、多くの作曲家が付曲しているものです。
まず、この曲の大きな特徴は、アップテンポで完全なホモフォニックであるという点。それにも関わらず、ほとんど同一の主題がひたすら繰り返されている、という点がまず誰にでもわかると思います。(メロディよりもモチーフのようなもので組み立てられている)
ホモフォニック&同一主題の執拗な繰り返し、という曲の基本構造のため、曲調の変化はもっぱら音量によって行われます。それも、cresc. dim. のような指示でなく、subito のように、フレーズごとの極端な音量操作を要求されます。
曲の構成は、歌詞が全部で三回、順序に沿って繰り返されます。曲調もほぼ三回同じように繰り返されます(仮にこれを1番、2番、3番と呼びましょう)。最後は Gloria in excelsis Deo, Alleluia がコーダのように何回か繰り返されて派手に終わります。
調は基本的にC調ですが、1番、3番では途中 C-mol っぽくなります。2番では、E-dur さらに G-dur になり、3回の繰り返しに若干の和声的な変化が加わっています。
長くなりました。続きはまた後ほど・・・
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May 08, 2005
ハンガリーのコラール・エヴァ先生をお招きして、浜松市合唱連盟が主催した合唱講習会がありました。
今回、公開レッスンのモデル合唱団としてヴォア・ヴェールも参加。ハンガリーの先生によるレッスンという貴重な体験をさせてもらうことができました。
公開レッスンの前は、コダーイシステムによるソルミゼーションの紹介。いわゆる移動ドの話です。ただ、移動ドというとどうしても泥臭い話になりがちだけど(固定ド派が反発する)、ハンドサインをやると不思議にみんな熱心になってしまうんですね。ハンドサインって、ちょっとゲーム感覚で面白い。あげくの果てには、「これなら音取りできるようになるかも~」と言う人が現れる始末・・・。まあいいんですが。
実際のところ、ハンドサインの意義は、楽譜の読み方を教わる前の子供に音程感覚を付けるための道具としてあるわけで、五線譜を知ってしまった人にはあんまり意味ないし、そもそも音程感覚が付いていなければ、移動ドで言おうが、ハンドサインを使おうが音程は悪いままなはず。
それでもゲーム感覚の面白さがあるから、こういった講習会ではハンドサインは掴みとして使えるよなあと感じてしまいます。まあ、通常の練習の中で、息抜きでやってみてもいいかもしれませんが。(その前にみんなを移動ド派にしなければならないけど)
さて、公開レッスンのほうは、コダーイのシンプルな曲を私がゆっくり目に練習して持っていったら、本番、随分軽快なテンポに修正され、皆は大変だったようです。でも突然の曲作りの変化に付いていけるようになる、というのも大切なことで、それなりに合唱団としては有意義だったのではと思っています。
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May 07, 2005
ハンガリーの合唱曲は、日本中でも相当歌われているはず。
無伴奏合唱を良くやる団体なら、一度はコダーイ、バールドシュなどの曲を歌うものだと思います。最近の作曲家でも、オルバーンやコチャールなど、ハンガリーの曲は良く歌われています。それほどメジャーなハンガリー合唱曲なのに、みんなマジャール語とどうやって格闘しているのでしょうか?
合唱団の頑張り屋が辞典と文法書を買って、歌詞の発音や意味を調べているのでしょうか?CDに訳詩が載っているかもしれませんが、自分の欲しい曲がそうそう、うまい具合に入ってなどいません。だいたい日本でこれだけ歌われているのならもう少しマジャール語の情報があってもいいと思うのは私だけ。(いや、きっとたくさんいるに違いないのですが・・・)
発音くらいなら、巷にあるハンガリー語(マジャール語)の本で多少は調べられるけど、歌詞の意味をきっちり訳そうと思うと、それだけではいかにも心もとない。やはり、その筋の方々のしっかりした訳に触れたいものです。
自分で訳そうと思うと、英語だって相当ヤバイですよ。詩というのは、どんな言語であれ、かなり文法から逸脱するもの。以前、英語の詩を訳してみたとき、さっぱりわからない部分もあったりして、こりゃ自分でやるもんじゃないなあ、と思わず感じました・・・。
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February 10, 2005
何度も書くようですが、トルミスの合唱曲ってうまいなあって思うのです。
基本的には、同じメロディの執拗な繰り返しなのだけど、それを取り囲む和声やリズムのバリエーションで音楽がだんだん変容していくパターンが多いです。そして、そういう曲を聴くと、そうそうそれでいいんだよね、と個人的には納得できちゃうんです。
合唱は、少なくとも日本では閉鎖的な音楽ジャンルなので、作曲家も聴衆より演奏家に向けて書いている側面があるように思います。歌い手は器楽的なフレーズや、単純な音符を嫌い、メロディを歌うことを指向します。だから、とりわけピアノ伴奏の比重は高まります。そういう歌い手の心理からすれば、メロディの単純な繰り返しや、白玉音符でひたすら和音作りを強いられる音符は敬遠されるでしょう。
ところが、聴く側から合唱を捉えたとき、トルミスのようなシンプルさ、繰り返しの執拗さ、コーラスによる単純なハーモニーの美しさというのは、どれも美点のように思えてきます。いわばヒーリング系の気持ちよさなのかもしれませんが、良く作られていれば飽きるということはありませんし、シンプルだからこそ人の声のデモーニッシュな側面が強調されるような気もしてきます。
シンプルな楽曲の芸術性云々は置いておくとしても、聴いて気持ちいいものをもっと演奏していきたいな、と思います。歌い手も、歌う側の論理だけに凝り固まっていないか、素直な気持ちで音楽を捉えなおしてみて欲しいのです。
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January 31, 2005
昨日、静岡県のアンサンブルコンテストに参加。昨年はヴォア・ヴェールが念願のグランプリ受賞だったので、今年はちょっとシャレで男声と女声で分かれて出ることに。結果は推して計るべし・・・。女声は銀賞、男声は銅賞でした。今年は混声のレベルが高くて、とても太刀打ちできませんでした。
とはいえ、男声組、1月になってからたった四回の練習しかしてないし、結局全員揃ったのが当日だったし・・・というあんまり自慢できない状態だったのは確か。もう少しみんながこなれていれば声も出てきたかな、とは思いましたが。
それにしてもアンコンというのは、人数が少ないだけに、人数差や発声の力の差で露骨に順位が付いてしまいます。レベルが高いコンクールならともかく、静岡県のアンコンくらいだと曲作りって大した影響が無いような気がしたりして。
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December 28, 2004
普通クラシックの世界で歌をやっているといえば、オペラのアリアや歌曲などをソロで歌うような活動でしょう。妻もそういう世界に片足を突っ込んでいるわけですが、実際、こういう世界にはいろいろ怪しい人たちが多いのです。声楽といえばイタリアオペラ、というような方々は世の中にたくさんいるらしく、またそれを指導する人たちもそういった価値観の中にどっぷり浸かっています。
そういう人たちの中には、合唱を毛嫌いしたり、一段低いものと捉える方々も多いらしい。もちろん、一般的には合唱団にソリスト級の人たちはそれほどいないでしょうし、どちらかというとアマチュア音楽的な世界ではあります。それでも、音楽をするために必要なアンサンブル力というのは合唱では求められます。
ソリスト的な歌いまわしとアンサンブル重視の歌いまわしはもちろん両立しないわけではありませんが、本質的な意味において相反する関係であるのかもしれません。
つまり、ソリストにとって自分自身の存在感を示すことは何より大事なことであり、そのため伴奏から意図的にはみ出たりすることはむしろ演奏者の色を出すことに繋がります。印象という点でいえば、単純に高音が出せたり、音量が大きかったりという要素も重要でしょう。そこまでいかなくとも、若干のビブラートとか、一音符内での音量操作などもソリスティックな歌いまわしには欠かせません。
逆に合唱団の中では、音量や音質に統制を取る必要が出てきます。アンサンブルというのは一種の規制であり、制約を課せられたゲームのようなものです。本来はその制約の中でいかにドラマを作っていくのか、というのが音楽の中で大事な要素なのですが、アマチュア合唱の場合、制約を守らせるのに精一杯な現実があります。
ところが、それがソリストの世界から見ると、ただの規制をはめられた音楽というように見えてしまっているのではないかと思うのです。
どんな音楽活動であれ、アンサンブルの楽しさを知らないことは大変残念なことに思います。しかし声楽家と呼ばれている人たちには、意外とこのアンサンブル能力が低い人が多いように感じます。それは、あたかも合唱に対するアンチテーゼのようです。
私が所属しているアンサンブルグループのムジカチェレステの忘年会でこんな話をしたのですが、ソロ活動もしている人たちは、ソロの人たちにももっとアンサンブルの楽しさを知って欲しい、と言ってました。本当にそのとおりなのだけど、なかなか振り向いてはくれないようです。
逆に、私にはもっとソリスティックな歌の能力を求められていて、頑張ります、というしかない状態なのでした。
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December 12, 2004
今日は、静岡県芸術祭の合唱部門にヴォア・ヴェールで参加してきました。
4月に演奏会をやって以来、今年は小ステージの縁が無くて久しぶりの本番になったのですが、今日都合の悪い人が5人もいてステージに乗った人は13人。申請の人数よりも減ってしまった…
練習の出席率も必ずしも良くは無いので、全体的にのんびりしたムードの合唱団になりつつあります。まあ、居心地は良いのだろうけど、これではなかなかうまくなりません。今日演奏したバーバーの Reincarnations も4月以来、8ヶ月以上歌っているのだけど、歌いきれている感じがどうも出てこないのです。
ここ数回の練習でやはり気になったのはピッチの問題。
私の周りではこういった小アカペラ合唱団ばかりなので、もういつでもピッチの問題だらけなんですが、どれだけ苦労してもやっぱり王道というのは見つからないんですね。日によっても違うし、歌う場所によっても違うし、指揮者が言ってしまった一言でさらに悪化してしまう場合もあります。考えてみれば、何十人という人たちが一つのハーモニーを作る際、一人が何かアクションしたくても、一瞬ではどうするのが一番正しいことなのかは判断がなかなかつきません。
それに微妙なずれだと、上がっているのか下がっているのか、やはり一瞬ではなかなか判断しづらい。指揮者が「低い、低い」と言って、もともと上がってずれていたのが、どんどんずれていくのは良くあること。最近はそういう間違いが怖くて、よほど確信が無いと低いとか、高いとか私も言わなくなりました。^^;
まあ、そんなこんなでピッチを良くするにはどうするか考え始めると、どんどん思考は袋小路に入っていくのです。
団員が20人を超えると、ピッチ的に安定状態に向かうような力学が働くような気がするのですが(つまり1パートが5人くらいになれば)、それ以下だと、個人の能力や気まぐれに左右されることが多くなるわけです。そんなことを考えると、やっぱりとりあえずは人数だよなあ、と思うのですが、不思議に私の関わる合唱団の人数は20名を超えたことがないのです。
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December 02, 2004
全国大会に行って思わぬ出費になるのが、パナムジカの出店で買う楽譜代。
今年の購入楽譜は、コスティアイネンのMISSA IN DEO SALUTARE MEUM、モチュニク:Christus est natus、トルミス:古代の海の歌、千原英喜:どちりなきりしたん、といったところ。毎年、演奏を聞いたあと、思わず楽譜を買うのはいいのだけど、その後歌うでもなし、本棚の肥やしになっていくわけです。
もちろん、楽譜を買ったら、ピアノでたらたら弾いてみたりします。
よく、一流の指揮者、作曲家は楽譜を見るだけで頭の中で音楽が鳴る、なんて言いますが・・・、そういう話を聞くと、私などついつい反発したくなっちゃいます。どうも人々は音楽の能力を、そういう技術力で測るのが好きらしい。まあ、人の頭の中でどんな音が鳴っているか、頭をかち割ったってわからないんだから、「私は鳴るよ」なんて言われても否定はできないわけですが。
そんなわけで、そんな能力のない私は一生懸命ピアノを叩くのですが、ピアノの技術も無いので、数ページ弾いていると弾くのに精一杯になって曲の輪郭がぼやけてしまうのです。そして、やっぱり音源が欲しいなあ、とか思うわけです。まあ、苦労してMIDIで打ち込んでもいいのだけど、最近は面倒になってきました。
かくして、音像も明らかにならないまま、またまた本棚に合唱楽譜がたまっていくのでした。
今回ゲットした楽譜の中でとりわけ異色なのがトルミスの曲。はっきり言って弾くのは簡単です。ただ、歌詞をつけたあの独特の感覚は声でないとわからないし、楽譜上では淡白な白玉の和音も、分厚いハーモニーがあればこそ映えてくるわけで、そう考えてみるとやはりトルミス、恐るべし、と今更ながら思うのです。
この曲は、極小的な和音構成よりも、曲の構成力こそ評価されるべきなのでしょうね。
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November 23, 2004
松山で開催された合唱コンクール全国大会に行ってきました。
ここ2年、合唱コンクール全国大会は近場だったので聞きに行ってみたわけですが、今年は観光も兼ねるということにして、頑張って四国まで渡ることにしました。コンクールの後、月曜、火曜としまなみ海道を観光して、さっき帰ってきたところです。実は、私、今回生まれて初めて四国に行きました。^^;
さて、例年ですと、選曲や演奏の印象、各団体などの感想などを書くわけですが、三年連続で聴衆として全国大会を聴いているうちに、なんだかこの大会自体を客観的な目で見るようになってしまいました。
正直言うと、全国大会って出場者じゃないと面白くないんですよね。参加する人が一番面白いように、全ての仕組みが出来ているんです。今年は知り合いも多い浜松合唱団が全国大会に出場したこともあって、かなりの知り合いが会場にいたのですが、そのせいもあって余計そう思うのかもしれません。
出場者も、観客なんかほとんど意識していない。意識するのは審査員です。コンクールは、出場者と審査員で完結していて、単に見に行った聴衆はかやの外のようなそんな気がするのです。
今年はアクセスのあまり良くない松山というせいもあったのか、初日の午前中は観客も超まばら。すごい寂しいです。これがこの大会を目指して全国からツワモノが集まってくる場所なのか、とても疑問を感じます。確かに、松山ということでなくても、これまでも会場が熱気ムンムンだったということは少なかったように思います、審査発表時以外は・・・。
そもそも、これだけの団体数がところてん方式で、入れ替わり立ち代りひたすら演奏を続けるというのは、どう考えても聴衆にとって優しい環境とは思えません。それは取りも直さず、出演者主体でスケジュールが組んであるからであり、出場者と審査員の都合でしか考えていないことの証拠でしょう。ただ、こういう突っ込みを入れ始めると、全国大会というシステム自体を否定することになり兼ねないので、これ以上言っても仕方のないことではありますが。
もちろん、じゃあ出ればいいじゃない、という突っ込みはあるでしょう。残念ながら私にはその機会はありそうにないですが。(朝日作曲賞の表彰台にはまた立ちたいですけど・・・^^;。今年はいいとこまでいったのですけどね)
今月の頭に、吹奏楽の全国大会の様子をテレビ番組で特集していたのを見た人もいると思います。(所ジョージ司会の番組)
高校生が毎日のように鬼のような特訓を受けつつ、コンクール全国大会目指して日々頑張っているというスポ根的ノリで、さわやかな感動を誘うような番組構成になっているわけです。恐らく、多くの人が好感を持ってあの番組を見たのではないでしょうか。
私も、学生の頃、こんなに一途に打ち込めるなんて羨ましいなんて思う気持ちもあったのは確かですが、それでもなお、甲子園的ノリで勝ち抜きで音楽の優劣を競うために、各高校が血眼になっている様を見て、何か歪んだものを感じてしまったのです。
以前も、聴衆不在のお稽古系音楽ジャンルの談話を書きましたが、こういった全国大会のあり方が、その方向を助長しているように思えます。もっと、聴衆を増やす方法を、どんな興行であっても考えるべきではないかと、私は思います。
さて、演奏の方ですが、個人的には一般Aでは、ゾリステン・アンサンブル、会津混声合唱団、アンサンブルVine が、そして一般Bでは、なにわコラリアーズ がお気に入りでした。特に、なにわコラリアーズの印象は圧倒的で、もう、かっこいい!の一言しか出ません。
個人的には、アンサンブルが少し破綻してもハリハリ系の声で押してしまうような演奏にはあまり共感を感じないのですが、のきなみそういう団体が金賞を受賞する傾向があるのが、今ひとつ面白くありません。私としては、鳴りが弱くても、指揮者がアンサンブルをきちんと統制し、しかも曲の面白さを彫り深く表現するような知的な演奏が好きです。(まあ、それもあくまで私が判断して、ということですが)
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October 31, 2004
前も書いたとおり、ピッチが悪いという指摘には、音楽の様々な要素が絡み合っているものです。
音程を語る際、単純なピッチという物理的意味だけでなく、音楽一般理論としての常識、曲の文化的文脈にも依存するはずです。もちろん、実際には先回言った発声、呼吸といった声楽的な問題が一番大きいに違いありません。
ただ、実際アカペラ作品を歌う場合、歌い手側が直面する問題は、もっと具体的でシビアな内容です。
声部間でピッチが崩れたとき、誰に合わせたらいいか、というようなことを瞬間的に判断しなければなりません。このような苦労をするのは、いつも間に挟まれる内声部であることが多いのですが、もちろん外声部だって合わせようがないということもあります。
こんなとき、みんなベースを良く聞いて、とか言ってベースにピッチの基準の責任を負わしたりします。もちろん、ベースがきちんと歌わなきゃいけないのはいつでも正しいことではありますが、ベースに合わせることが一般的に正しいかどうかは何ともいえないでしょう。メロディ側に合わせるという考え方だってあります。もちろん、合わせられる側が大きく崩れないというのが大前提ではありますが。
実際には、アカペラのピッチに関しても人間関係とは別の、演奏時に起きる力関係^^;というのがあるわけです。音楽の屋台骨を支えるメンバーが何人かいて、そのメンバーのピッチ感に左右されることもしばしば。よくそういう人のことを核になる、なんて言いますが、核になっているメンバーとはいえ、所詮アマチュア合唱団員ですから、本番で思わず崩れる場合があります。本来ならば、そういうときに音楽全体が崩れないように、個々のメンバーが他人に依存しないだけの自立した音楽表現力を持たなければいけないのですが、なかなかそれは難しいことです。
パート内の核となる人、というのが音楽に大きな影響を及ぼしているにも関わらず、練習中に前に立つ指導者がそれを具体的に言うのはやはり気が引けます。指揮者はあくまで団に対して指示をするのであり、それをどのように咀嚼して表現するかは歌い手側の領分だ、という言い方もできるでしょうが、プロ合唱団じゃないし、実際には合唱団は指揮者の(見た目には)言うなり状態です。
こういうところが、アマチュア合唱指揮の難しさだな、と本当に思うわけです。練習中に核になる人だけに注意するわけにもいかず、逆にそれ以外の人たちを指定するわけにもいかず、直して欲しい人は一向に直してくれず、直さなくていい人が余計に反応してしまうのは良くあること。まあ、指示に繊細であるから上手に歌えるし、鈍感だから表現力が弱いことにも繋がるわけですが、それが一緒くたになっていることが歌い手側の合唱団の心地よさに繋がっているのかもしれません。だから、このような状態でピッチの指示を続ければ、パート内のピッチのずれは広がる一方です。
なかなか、現実の音楽を構成する各人の機能を明確にすることは難しいものです。本当にやってしまえば、うまく歌えない人を糾弾することになり、結果的に団の雰囲気を悪くします。あるいは、歌えない人を歌わなくさせる雰囲気を作ってしまいます。
実際には、合唱団の中に流れるある種の緊張感、張り詰めた雰囲気のようなもの、が結局のところ必要なのかもしれません。コンクールに一生懸命取り組む団体はそういう雰囲気も作りやすいのかもしれませんが、それだけの気合を入れるのも一苦労。そうなると、パート全体に対する指示でお茶を濁しながら、日々の練習を費やすということになるわけです。
いずれにしてもアカペラのピッチ精度は、団内の核メンバーに依存することが多く、この辺りを指揮者がうまく押さえることが隠れたポイントなのかなとも最近思ったりするのです。
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October 17, 2004
合唱の技術的な話としてピッチに関してはいろいろ書いてきたりしましたが、こういったストレートな問いはこれまでの談話ではなかったように思います。
正しいピッチで歌う方法があれば、まあ、すでにみんなやっているわけで、そんな解決方法がないからこそ、いろいろ悩むわけです。最近は、少人数のアカペラ合唱をやる団体も増えてきて、かなりの団体がピッチの問題を抱えていると思いますし、コンクールの批評などでもピッチの指摘を書かれることは多いでしょう。
私とても偉そうに書ける分際じゃありません。
指揮をしているときは、ピッチが悪いと言うことは出来ます。でも誰に対してどう指示すべきかは悩むものです。逆に自分が歌っている立場になると、ただ聞いているときよりは絶対に気付きにくくなります。別のことに気を取られて歌っていると、今度はピッチが悪くなってしまうという感じで、同時に複数のことを考えながら歌うのは難しいものです。それもたいていの場合、自分が歌っているときは自分では気付かず、人からピッチが悪いと指摘を受けたとき、指摘そのものが怪しい場合もあって^^;、実際のところどうすべきなのか自分でも良くわからないのです。
つまり、ピッチというのは本来極めて確かな定義がある物理量であるにもかかわらず、実際の練習の場では、そのような明確な基準で指摘されたり、的確な手順で修正されているとは思えない実態があるわけです。今、低いと思ったパートに対して、指揮者が「低い」と言うだけの練習なら、恐らく合唱団のピッチは良くはならないでしょう。
他人の演奏に対して「ピッチが悪い」とか「ハモっていない」というのは、厳密な意味において、全て正しい指摘になってしまうわけで、ついつい誰でも言いたくなってしまう便利な批評言葉です。しかし、実際、ピッチが悪いと感じる評価基準そのものが人によって様々で、なかなか額面どおり受け取っていいものかどうか難しい場合もあります。
私の考えるに、微妙なピッチの問題は音色の問題も大きいと思うのです。ピッチが悪いことが気になる音色というのがあります。言葉を変えれば、ピッチが悪いと思われやすい音色です。むろん、平べったく声楽的でない発声はそういう音色の代表格ですが、鋭く固い音色であるほど、ピッチ的な指摘を受けやすい(もちろん発声の指摘も受けやすい)音色なのでしょう。かといって、輪郭をぼかすような音色は、最終的には少人数合唱団に必ずしもいい音楽をもたらしません。
あとは、呼吸の問題。ブレスの安定度。音程は正しそうでも、息の量にムラがあると、どうしても歌声は不安定に聞こえます。不安定な歌い声は、それだけでピッチが悪いと指摘されやすくなります。
そういう意味では、ピッチに対して、ピッチそのものを直そうとするより、本質的には音色、呼吸といったような発声技術を整えていくことが必要だと思われます。ピッチが悪くなりそうな箇所というのは、割と一般化出来ます。例えば同じ音が続く箇所とか、開口系母音に変わったときとか、ピッチの跳躍が大きいときなどが挙げられます。そういう一般ルールを知るだけでも、多少意識して歌うことができるようになるかもしれません。
まあ、そうはいっても一般合唱団でそこまで通常練習の中でやることは実際難しいし、ボイトレ自体が定義された体系をなかなか持っていないという現実もあり、ますます練習の進め方に対する悩みは深まります。
実際のところ、ピッチの問題は音楽のあらゆる様相に関わっていて、やはり単純ではないのだと感じます。
つまるところ、ピッチの良し悪しは歌い手個人個人の耳の良さに依存してしまうのですが、耳の良さは音楽経験だけで培われるものではありません。知識や文化的背景によっても、ピッチを感じる精度は変わります。例えば、ある程度和声の知識があれば、今歌っている和音が何なのか、自分が和音の第何音を歌っているのか、それを知るだけでも和音精度を上げる手がかりがつかめます。ただし、和声知識は指揮者であってもかなり怪しいので、なかなか望むべくもありません。同様に、純正の和音に関する知識や音律の知識なども多少の参考にはなるはずです。
もう一つは、音楽が聴衆に与える効果、というのをどれだけ読みきれるか、という点も重要です。テンポが速く、音符が細かい音楽では、ピッチ精度は低くなりますが、聴衆の判断できる精度も悪くなります。だから、ことさらにそういう箇所のピッチを一生懸命練習するのは効果的とは思えません。逆に、一つの和音が比較的長く聞こえる場所こそ、きっちりと和音合わせをする必要があります。もちろん、そこだけ練習して出来ても、流れの中でやらないと意味がない場合というのもあるので、どのように細切れにして練習するかは指揮者のセンスが問われますが。
そういう練習の中で、誰が何を気をつければピッチが良くなるのか、的確な指摘とはどういうものなのか、またいろいろ考えてみたいと思います。
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October 03, 2004
本日、毎年恒例の合唱コンクール関東大会に参加してきました。
それにしても、この週末はハードでした。というのも、この忙しいというのに昨夜名古屋に行ってきたからです。
昨日(2日土曜日)、関東大会のための練習をお昼の12時から3時までやった後、一路名古屋へ。名古屋で活動しているコールクリアスカイの演奏会を見に行くためです。この演奏会で、拙作「アステカのうた」を演奏するので聴きにいったというわけです。「アステカのうた」は私が指揮する合唱団では、長い間取り上げていたのですが、それ以外の合唱団で取り上げてもらえるのが恐らくこれが初めてだったのではないでしょうか。ちなみに、今回ジョバンニから発売されたCDでも、コールクリアスカイが「アステカのうた」を録音してくれています。
さて、この合唱団、団員がかなり若く、とても勢いのある合唱団です。演奏会のプログラムもかなり意欲的。正直、この人数で一晩でやるには少々多すぎかなという感じはしました。演奏自体はいろいろと傷はあるにしても、合唱団全体で伝えたいことが明確で、こだわりを強く感じた演奏でした。「アステカのうた」も日本語を非常に大事にして歌ってくれたのは、とても好感が持てます。密集和音の多い、音の取りにくい曲ですが、かなりの精度で歌ってくれていたと思います。より歌詞の意味を咀嚼して、例えば終曲のちょっとエッチな感じがうまく表現できているとさらに嬉しかったのです。
終演時間も遅く、新幹線の終電が間に合わなくなるので、打ち上げは後ろ髪を引かれながらもパスすることにして、ジョバンニの木村さんと店員?のFちゃんと夕食してから駅まで送ってもらうことにしました。
その後、車で名古屋駅まで送ってもらったのですが、意外に道路が混んでいる。車中では楽しく雑談していましたが、だんだん終電の時間が近づき気になってきました。しかし、時間は刻々と去っていくのに、車はなかなか進みません。そして・・・・なんと、終電までに駅に着くのが間に合わないという事態になってしまったのです!
いや、マジにあせりました。その後、浜松まで帰れる電車は東海道線のムーンライトながらという夜行列車のみ。仕方がなく、このチケットを名古屋駅で買って、その出発までの空いた一時間あまり、結局、コールクリアスカイの打ち上げにお邪魔することになったのでした。
それにしても、打ち上げ会場に私が現れたときの皆の喜びようといったら・・・。顔が引きつりながらも、皆の歓迎を受けて、おいしいビールをいただきました。ほんのちょっとでしたが、何人かの方とお話できて楽しかったです。
そんなわけで、夕べ家に着いたのが夜中の一時半過ぎ。
翌日は関東大会で、早めに集まって声出しするので、朝6時40分の新幹線で静岡に向かう予定。おかげで、結局昨夜は4時間ほどしか寝れませんでした。
今日は、あいにくの雨。本当は、会場近くのお城の中で発声練習しようと思っていたのですが、仕方がなく会場の静岡市民文化会館の入り口の前で、発声練習をすることに。関東大会恒例の朝練習は、地元ということもあってか、残念ながら例年よりあまりしっかりした練習が出来ませんでした。
職場の部は、全体の中で朝一番。そして我々の出番はその2番目。大会開始後、早々に本番のほうは終わってしまいました。ちなみに結果ですが、昨年とほぼ同じ結果です。今年は最低人数8人での参加だったので、もうビリにならないだけでもマシというのが、正直な感想。来年は、もう無理かなあ・・・。
さて、その後は、恒例の一般の部の鑑賞会。
睡眠不足だったこともあり、気が付くと何度も意識を失ってはいましたが、結局、お昼の後の一団体を除いて、全部聴いてしまいました。
特に一般の部Aは、若い同年代の団員が集まっている団体がとても多くなっています。これって、やはり学校のOB,OGじゃないかなあ、などと勘ぐってしまいます。高校時代のコンクールへの情熱を忘れられない人たちが集まって作ったみたいな・・・
そういう団体の中でも、すごく時間をかけてきちっと作っているのが伝わる演奏がいくつかありました。若いということもあって、やはり時間が十分あるのでしょうか。それならば、本当に羨ましい。
山梨県のS.C.Gioiaという団体、初めて聞く名ですが、マドリガーレの歌い方を徹底的にこだわっていたのが印象的。メッサディボーチェ的歌い方をとことんまで先生が叩き込んだのが良くわかりました。埼玉県のアンサンブル g/fは、声が統制されていて、完璧に揃えられていました。ここの声はすごいと感じました。ただ、統制されすぎたのか、歌の表現が少し弱かったかもしれません。
結構衝撃的なのが神奈川県の横浜室内合唱団海~kai~。コスチュームがいきなり派手で目を奪われます。曲の沖縄民謡に合わせたのでしょうか。そして、リズムに合わせて、指揮者をはじめとした全員がうねうねと動きながら歌うスタイルは、ちょっと怪しい。しかし、よくよく聞いていると、指導者が非常に細かいところまで丹念にこだわって音楽を作っていることが伺え、そのセンスはなかなかのものと感じました。
一般の部Bでは、川越牧声会があの鳴り声でラインベルガーのドッペルのミサ曲を聞かせてくれたのが絶品。もちろん代表に。
そして、なんともう一つの代表は、地元の浜松合唱団がゲット!!いやーおめでとう、浜松合唱団の皆さん。私も全国大会では応援しますよ!全国では、さらに良い演奏が出来るように頑張ってください。
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September 12, 2004
合唱が他の音楽に比べて、圧倒的に不利なのは音量が小さいという点だと思います。
合唱団にいれば、ちょっとした機会に、ホール以外で歌うこともあることでしょう。大人数で歌うならそれほど気にならないかもしれませんが、屋外とか、全く響きのない空間だとか、ざわついたオープンスペースだとか、そういう場所で音楽をやる場合、やはり音量の小ささはマイナス要因になると感じてしまいます。
合唱というジャンル自体一般的でない日本において、こういった理想的な環境ではない場合でも、平気で演奏を頼まれるし、歌う側も演奏環境にはあまり気には留めませんが、どうせホール以外の場で歌うのなら、もう少しまともな環境を自分たちで作ってしまいたいものです。
こういった場合、マイクで音を拾ってスピーカーで出す、いわゆるPAをもっと活用すべきではないかと思います。
クラシックなのだから、マイクで拡声したくない、という意見もあるでしょうが、それならばそもそも劣悪な音環境の中で歌うこと自体、拒否すべきです。いろいろな場所で歌って、合唱の、歌の魅力を知ってもらいたいと思うならば、それを最大限聞かせる努力をやはりするべきではないでしょうか。
そういう意味で、PAは生音楽にとって少しも悪いことではないし、むしろ生音楽の魅力をきちんと音響に反映できるようなPAのテクニックというものがもっと研究されたらいいのにと思っています。
PA屋さんも、合唱の知識はないので、たまにPAを使って演奏するときなども、なかなか思い通りのセッティングをしてくれないのが現状です。だから、合唱とPAの技術、両方に長けた人が合唱における理想のPAというのを考えて欲しいなあ、などと思っています。
私自身、あまりPAに詳しいわけではありませんが、以下、自分の知っている範囲で、合唱におけるPAというのを考えてみましょう。
最大の問題は、スピーカーの位置、マイクの位置、モニタースピーカーの位置です。お客に聞かせるスピーカーの位置は、会場の形にもよるのでなんとも言えませんが、歌う側にとって問題なのはマイクの位置と、モニタースピーカーの位置。
そんなに立派なPAを期待するわけにもいかないので、実際にはステレオマイク一本とか、少し遠めにマイク二本立てるとかくらいが現実的なパターンでしょうが、会場の広さによってはあまり遠くにマイクが置けないかもしれません。マイクが近くなるほど、マイクに近い人の声がもろに入ってしまいます。後で演奏の録音など聞くと、○○さんと仲間たち、みたいな演奏になっていたなんてこともしばしば。
そうすると、特定の人の声がマイクでたくさん拾われないように、マイクは多くの人から等距離になるように、結果的には合唱団から少し離すような位置がベターでしょう。それから、指向性の高いマイクを使わないという手もあるかもしれません。
合唱団に対するモニタースピーカーというのはどうしたらよいものでしょう。合唱団的な考えだと、後ろから声が聞こえてくることを好む人もいそうですが、一番後ろの人からさらに自分たちの声が聞こえてくるのは変だし、そもそもモニタースピーカーが前を向いていたら、その音自体をマイクが拾ってしまい、音響設定が難しくなってしまいます。最悪ハウリングも起こるかもしれません。
となると、前かあるいは横からモニタースピーカの音が流れるというのが良いでしょう。また、合唱の場合、モニタースピーカの音は、自分たちの声の確認というより、ホールで歌っているような気分、という要素もあるかもしれません。そうなると、直接音よりもリバーブ成分を大めにしてやったほうが良いような気がします。いたずらに人の声の直接音が聞こえると、もっと自分も出さなければいけないような気分になり、一人一人が大きめに声を出してしまう危険性もあるでしょう。
ミキサーのセッティング自体は、それほどやることはないと思います。ただ、良質なリバーブ(残響)が得られるようなエフェクタは欲しいところです。
マイク二本(あるいはステレオマイク一本)、モニタースピーカ二つ、メインスピーカ二つ、あとミキサーがあればちょっとしたPAは出来るはずです。とは言え、合唱団でこういう機材を揃えるのはちょっと金銭的に大変です。ミキサーなどは最近安いものも多くなってきましたが、PA用スピーカはちょっと値がはってしまいます。
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August 22, 2004
先週もプロ合唱団について書きましたが、今日は本物のプロ合唱団、東京混声合唱団の掛川公演に行ってきました。
県内の合唱愛好家が集うかと思いきや、観客のほとんどは妙齢の女性ばかり。しかも、よく見てみたらそういう観客層をとても意識した選曲になっているわけです。地元の合唱団と合同ステージもあり、典型的な地方巡業コンサートでありました。
東京に住んでいれば、東京混声合唱団の意欲的な選曲の数々を聞くこともできるのでしょうが、なかなか地方に住んでいると、こういったあからさまな地方巡業公演くらいしか耳にできないのが悲しいところ。それでも、そういうスタイルの中で、最大限お客様に楽しんでもらえることを配慮した、別の意味でのプロらしさを感じた演奏会でもありました。
やっぱりプロ合唱団は声が違う。当たり前ですが。
どんなに素人が一生懸命練習したって、素材が違っているのだから仕方ありません。一人一人がまず圧倒的な声楽的素質を持っています。それに、一頃の東混のイメージと違って、発声もくせがなくパート内の音色もよく揃っています。こういうのはやはり指揮者が、少しずつ指導していった成果なのかなと思えます。以前聞いたときより(かなり前ですが)団員も若い人が多く、それがアンサンブルの精度の高さに貢献しているように感じました。
唯一の東混らしい現代曲は「追分節考」。しかし、これもある意味、合唱を知らない人もいろいろな意味で楽しめる曲なんですね。
やっぱり自分のすぐ横で、バカでかい声で歌われたら、そりゃ面白いですって。音楽自体もいつ何が起こるか分からない緊迫感がある。何かあると、聴衆がすぐそちらのほうを向いて、「あっ今度はあっち」みたいに囁きながら聞いているのをみると、これも中々良い選曲だなあと感じます。
ただ、私はこの曲、初めて聞いたのですが、想像の範囲を超えるほどスゴいとも思えなかったのが正直なところ。
例えば「俗楽旋律考」を朗読させる意味、というのは実演で伝えることが不可能です。今日もそこまでプログラムに書かれていなかったし、聞いている側としてはただ、わけわからん音響の素材でしかないわけです。そういうことで作曲家としてはいいのか私には疑問が残りますが、実際のところ、演奏する側がウケの良い前衛曲として重宝している以上の意味を感じられませんでした。
後は、愛唱曲といいながら、シェーファーのガムランがあったりするあたりは良いサービスです。「ヤコブの息子」あたりもこの手のレパとしては良いかもしれません。「島唄」のアレンジも東混ならではの演奏でなかなか映えていました。
それで、今回ほとんどのオバ様たちが何に満足して帰ったかというと、やはり指揮者、大谷氏の華麗なステージングだったと思います。うまいですよ、大谷さん、お客を笑わすのが。合唱指揮者というとマジメな感じがありますが、こういう軽薄な笑いが取れる指揮者というのは、プロ合唱団にとって必須だと思いました。下手な曲目解説よりも、きっちりとこれから演奏する曲の内容を伝えていたと思います。私は、シリアスぶる指揮者より、こういう洒脱さがあるほうが、結果的に音楽的にも奥行きのある演奏ができるのでは、と思っています。
演奏会自体は、プロを感じさせるなかなかのものでしたが、こういう団体がもっともっと一般的になるにはどうしたらよいのでしょう。
私のようなマニアは、もっと純粋な合唱曲を、しかもアカペラで、きっちり歌ってくれるような演奏会を期待してしまいますが、それだとやはり合唱マニアしか喜ばないのですよね。実際、定期演奏会ではそういったプログラムばかり歌っているわけで、東混のメンバーも地方巡業と定期演奏会のレパートリーの落差には気持ちの切り替えに苦労しているのではと思いますが、実際どうなんでしょう。
最近私は、編曲ステージでももっとオリジナリティのある、創造的なステージができると思っています。そういう方向性もプロには是非真剣にトライしてもらいたいのです。
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August 15, 2004
前この題で話(ここ)を書いた後、合唱団のことをほとんど書いてないことに気付きました。
だいたい、前のとき鼓童のことをなぜ書いたかというと、彼の音楽もさることながら、その活動方法に驚いたからです。
彼らはほとんど毎日を、同じ楽団員と一緒に生活しているようなものです。一年の 2/3 は演奏ツアー。残りは佐渡島で、次のツアーに向けての練習です。もちろん、そういう形で興行として成り立っているから、というのもありますが、しかしそれを実現させたのも彼ら自身の力のはずです。
一般的なクラシックの演奏なら、一部の超有名演奏家以外は演奏で食べていけるわけはないので、副業を持ったりしなければなりません。副業を持てば、同じメンバーでの練習時間は減ります。
例えば、プロ合唱団を作ることを考えた場合、その合唱団に所属するだけで食べていけなければ、アマチュア合唱団の指導とか、個人の演奏活動とか、他の団体にも所属するとか、声楽の先生になるとか、そういう副業をせざるを得ないものと思われます。(かなり勝手な想像ではありますが)
結局のところ、そういった別の活動をしなければいけないから、合唱団に関わる時間が少なくなります。一緒に練習する時間が少なければ、それは演奏の質になって現れます。そうなると、耳の肥えた聴衆からは批判の声が増えてしまうわけです。
それで私は思うのです、ならば、もっと毎日のように練習するようなプロ合唱団というのはあり得ないものかと。ある程度、声楽的な資質を持った人が長時間一緒に練習すれば、パート内で音色も揃ってくるだろし、団全体のグルーブ感も出てくるでしょう。そして、もっと自由自在な表現が可能になったりしないでしょうか。そう考えると、佐渡島のような田舎にこもるというのは、一つのやり方なんだなと思うのです。ここなら、他の活動なんてやりようがないですから。
以前、某プロ合唱団の演奏会で、本当に本番前に数回しか合わせてないような演奏を聞いて、残念に思ったことがあるのです。ルネサンス曲で恐らく音取りも簡単だったというのもありますが、音楽がほとんど練られていないのは聞いていてよくわかりました。スケジュール的に厳しい、という事実もあるでしょうが、これでは人の心を打つ個性的な団体には永遠になれないでしょう。
確かに、寝ても醒めても同じ人たちと一緒にいて、そういうメンバーでアンサンブル団体を作ろうというのは、プロっぽくない発想かもしれません。しかし、新しいタイプの合唱団を作って、合唱のイメージを変えるようなグループを作ろうと思ったら、そのくらいの気合は必要だと思います。
アマチュアの世界でさえ、イベント型合唱団や、自治体の村おこし的オケ付き合唱演奏会の単発型合唱のほうが気楽に参加できていい、という人もいるのですから、これでは中々演奏の質は上がらないわけです。当たり前のことですが、時間がかかっても同じメンバーで(もちろん遅刻・欠席なし)長い練習時間をかけることが良い合唱を作る条件だと私は思います。それが実際には、ほとんど実現されていないのです。
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July 10, 2004
ちょっと前に、こんな話を書いて、聴衆不在の合唱界を活性化するために、合唱のイメージを変えるようなスーパープロ合唱団が出
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