August 19, 2008
もちろん、こんなふうに二つ並べれば、商業主義に毒されたモノより、後世に残る本物の芸術の方が価値が高いものだと誰もが思うでしょう。
商業主義の弊害のようなものは当然あるとは思うのですが、だからといって売れることに背を向けるのは正しい考え方だとは思いません。なぜなら、今現在評価されないことを正当化することは、独りよがりになる危険性を孕んでいるからです。
確かに売れているモノの中には、うまく時流に乗ったり、芸術本来の力でなく付随する属性によって評価されたりすることも多い。しかし、それと同時に内容が確かだからこそ評価されているもの、というのも確実に存在します。
私たちが本当に鍛えるべきものは、売り上げとか、ランキングとかに翻弄されず、現在評価されているものの中から本物を探し当てる自分自身の審美眼だと思います。
注意深い鑑賞者は、今流行っているものの中から後世に残るモノを嗅ぎ分ける力を持っています。また、なかなかそこまでの審美眼を持っていなければ、自分自身を導いてくれる評論家の意見に頼るという方法もあります。直接的にしろ、間接的にしろ、自分が何かの判断をしなければいけないのは確かではありますが。
ですから、私の感覚としては、売れるモノというのは、残るモノになるための必要条件であり、少なくともこれだけ情報が氾濫する現在、本物が誰の目にも留まらない、ということはほとんどあり得ないことです。
売れることは重要ですが、「売れる」ために本来の中身以外の属性を強調してしまう人たちが少なからずいます。鑑賞する側は、それをきっちり見極めなければいけないし、創作する側は、売れるためにどんな努力をするのか、その質が問われているのです。
おおざっぱな傾向として、正直日本人は流行りに弱い部分があると思います。それは、結局「売れる」けれど「残らない」ものを大量に排出してしまうことに繋がります。
そのような傾向を嘆く人たちもたくさんいます。悪く言えば、近視眼的な真面目さを持った人たちです。しかし最近思うのは、どのような状況においても、泰然としながら、しっかりと我が道を進める人がもっとも強いなあということ。スポーツなんかも同じですよね。
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July 13, 2008
人々は何を芸術に求めるのか?
もちろんこんな大層なことを、学術的にきちんと論じようとすれば、全ての芸術や宗教や哲学などを総括するような、大変な論文になってしまいます。なので、あくまでシンプルに私の思いつきの考えを書き連ねてみましょう。
私の思うのは以下の三つです。
1.人々は芸術に刺激を求める
2.人々は芸術に新しい精神的な体験を求める
3.人々は芸術に共感を求める
刺激というのは、簡単に言えば、日常と違うこと、そしてその違いに驚くこと。普段聴くことの無いような大音響はもちろん刺激だし、迫力のある映像、極彩色の映像、思いもつかない言葉の組み合わせ、常識を外れた行動、等等。何しろ、刺激とは普段とは違う何かです。
人間というのは本当に不合理な生き物です。生きるだけならおとなしく食べ物だけ食べていればいいのに、なぜ好奇心なんてものがあるのでしょう。いつも何か刺激が無いと生きていく活力が得られないのですね。お祭りのような非日常的な空間を作るのもその証拠のように思えます。
しかし、この刺激というのは一種の微分係数のようなもので、一度刺激を与えたモノを連続して与え続けると、それに慣れてしまい刺激で無くなってしまいます。さらに別の新しい刺激を人々は欲するようになるのです。
新しい精神的な体験とは何か?
例えば、宇宙旅行をしたり、古い王国の王様になったり、異国を放浪する旅人になったり、私たちは芸術を鑑賞することによって、普段の生活で得られない出来事を擬似的に体験します(した気になります)。小説、映画、演劇、オペラなどなど、ストーリー性のある芸術作品では、観客は自分自身を主人公に投影して、その世界観に没入し、そして主人公の心情を擬似的に体験したような気になり、それが気分を高揚させます。
最後の共感ですが、もちろん上記のような精神的体験から共感を得ることもあるでしょう。
しかし、もう一つこの共感を広義に捉えるなら、作品の中に自分の考えと共通する部分を見つけ、それを一緒に鑑賞する人と共有することによって、その思想をより強固なものにしていこうとする心境とでも言ったらいいでしょうか。
誰しも、自分と同じ考えを持った人がいるのは大変嬉しいことです。共感とは簡単に言えば、ある種の仲間意識のようなものです。自分と精神的に共通している誰かがいる、ということが自身が生きることに大きな安心を与えてくれるのです。
ということで芸術に求めるものについて、刺激、体験、共感、という三つのキーワードを提案してみました。
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June 11, 2008
芸術とはちょっと離れますが、メーカーに勤めていると、どうやったらヒット商品が出来るのか、という話題に触れることがあります。
生活必需品がほぼ家庭に行き渡った今、売れているモノというのは、それしか持たない個性や、凛とした哲学、ある種の尖った佇まいを持っているものです。以前もちょっと書いたのですが、商品にも芸術性が求められる時代になってきたような気がします。じゃあ、そういう商品を企画すればいいじゃない、となると、ことはそう簡単には進みません。
同様に、芸術には何かしら尖ったものがあるハズです。
逆に言えば、どのように尖っているのか、ということが芸術が持つ価値と密接に繋がっているように思えます。個性的とか、唯一性とか、オリジナリティとかそういう言葉は、その尖り具合から来ているものなのでしょう。
尖ったものは一見すると、新規性と間違われます。確かに、何か新しいからこそ尖って見えるし、個性的にも見えます。しかし、新規であることを目標にしてしまうと、全くセンスのない勘違いなものを作ってしまうことになりかねません。私には多くの前衛芸術がそのようなスパイラルに陥っているように思われます。
実は人は想像以上に保守的だと感じたりします。
保守的なまま、尖ったものを作ろうとすると、単なる表面的な新規性に走ります。しかし、時代を切り開く尖った感性というのは、常識を少しだけ外れたところにあって、それは往々にして人々が目を背けたり、侮蔑したり、嘲笑したりするものだったりします。
そういう意味で「尖ったもの」の対極にある価値観というのは常識の権化である学校教育じゃないか、とも感じます。変な言い方をすれば、学校では教え(られ)ないことに尖ったものの芽があるのかもしれません。
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June 08, 2008
オリジナリティとか個性という言葉はある意味、とても危険です。
抽象的な議論をすればするほど、こういう言葉は空回りし始めます。表面的に捉えれば捉えるほどゲテモノを生んでしまうことも良くあります。単なる表現方法のカタログ化にしかならないこともあります。
ある程度その道を極めた人は、そういう「個性」という言葉の危険性を良く知っていて、だからこそ、今度は逆に保守方向に気持ちを振ってしまいます。今、世にあって、多くの人に支持されている価値観をどれだけ極められるか、そちらだけにしか興味を持たなくなってしまいます。
要するに、個性というのは外面だけで判断しないこと、その胡散臭さに目を背け保守的態度をとらないこと、が大事なのではと私は思います。
外面だけで判断しないというのは実は案外難しい。なぜなら、内面は見えないからこそ内面であり、内面を知るには外面から判断するしかないからです。つまり外面を見るしか判断する手段がないのです。だから、その外面から、外面だけを繕っているのか、内面から自然に発露した外面なのかを判断する目を持つ必要があります。
行動が奇矯だったり、見た目が変わった人を「個性的」と呼ぶことがあります。なかなか普通の暮らしをしていて、普通の格好をしている人の普段の言動から「個性的」と呼ぶのは難しい。だけど、芸術にはそういう要素が必ずあると思います。
保守性に関して、これは新しい価値観を追い求めることを放棄してしまうような態度です。
残念ながら人は年を取るほど、社会的地位が高くなるほど、そして人から信頼を得れば得るほど保守的になっていきます。誰もが認めた価値観をもっとも効率的に、そして完璧に表現してみせることは、世渡り上手な芸術家のすること。しかし、新しい価値観を提示できない人は、本質的に芸術家、クリエータの資質に欠けているのではないかと私には思えます。
もちろん、「新しい価値観」という言葉の胡散臭さをひとまず置いといた話ですけれど。
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June 07, 2008
いい音楽って何だろう?という素朴な疑問について。
あんまりにも漠然としすぎて、素人ほど断定調に自らの思うところを語ってしまいがちだけど、音楽活動を継続的にしている人は、一生かけて追い求めるテーマなのだと思います。
もちろん、いつだって最良の、最高の音楽が出来たなんて思えないのだけど、それでも自分の中で何らかの理想像を持っていなければ、よい方向に持っていくことすらできません。
つまり、「いい音楽って何だろう?」という疑問は、そのままそれに答えようとする人の音楽の理想像を示すことに他ならないと思うわけです。
ところが、理想像がもし特定のアーティストの特定の演奏をイメージしているのなら、それは違うと私は思います。当面の目標ではあり得ても、音楽活動する人の最終目標では無いはずです。なぜなら、それは結局のところ他人の真似でしか無く、真似をする以上、目標となる対象には永遠に近づけないからです。自分は誰でもない自分自身であり、本質的に他の誰の真似も完璧には出来ないし、逆に他の誰も自分を真似することは出来ないのです。
芸術である以上、ある一定の技術力が必要なのは確かですが(もちろん、それを極めるのもとてつもないことですが)、それと同時に自分であることの唯一性、独自性、オリジナリティが、特に技術的レベルが高くなるほど求められるし、誰にも出来ないことをやるからこそ、そこに価値があるがあるはず。
オリジナリティという言葉をどれだけ真に咀嚼し、明確な形で示すことが出来るのか、それこそその人に取っての「いい音楽」のセンスが試される部分であり、最後に人の心にその音楽を残せるのかどうかの判断の分かれ目となるのだと思います。
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January 30, 2008
しつこく著作権ネタで。
よく読んでいるWEB上のニュースサイトでこんな記事がありました。
まあ、興味がないと読む気も起こらないと思いますが、内容はかなり濃いと思いますよ。
確かに著作権論議は、レコード会社とか出版社とかの権利を保持している企業と、コピーを可能とする機器を作るメーカーとの戦いがメインで、実はそこに実際のクリエータや、それを楽しむユーザの声が反映していることは少ないように思います。ネットでクリエータから直接ユーザに届けることが可能となった今、そもそも産業のあり方が根本的に変わる必要があるのだと思います。
上記記事の最後のほうで、完全コピーフリーにしたらどうか、という意見は我が意を得たりという感じでした。提案はさらに一歩進んで、税金で著作権料を徴収し分配する、ということを考えているようです。なるほどねぇ、さすがに専門家はいろいろなことを考えています。
ただ、税金だとクリエータは公務員ということになるのだろうか・・・と微妙な感じもあります。
もっとコンテンツを享受する側が、自主的に出資してくれるような仕組みがあればよいのですけど。
実際、一部のバカ売れアーティスト以外は、ほとんどの芸術家が「売れない」人たちであり、そういう人たちはお金が入ることよりも、まず知名度を上げたいと思っているのでは、とは何度も書いたとおり。
最低、作品を完成させるのに必要なお金さえあれば、意外とアーティストは貧乏にも耐えられるのです、きっと。
(そういえばこんな本も読んだっけ)
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January 25, 2008
著作権と言えば、今ホットなのは保護期間延長問題。
今、日本の著作権の保護期間は50年なのだけど、実は欧米のほとんどの国々は70年となっており、それらと歩調を合わせようと政府が検討を始めたあたりから、大きな議論が沸きあがっています。
もちろん、ただ歩調を合わせるために変えよう、というのもおかしな話で、本来著作権は誰がどのような利益を得るためのものなのか、そういう本質的なことが問われています。
そういった議論を聞くにつれ、私としては保護期間の延長にどうもいい印象を持たないのが正直な気持ちなのです。既得権益を手放したくないお役所や、企業の論理と似ています。文化を個人視点で無く、社会全般の利益という視点で見れば、保護期間は短いほうが明らかに良いように私には思えます。
実際、財産としての著作権は、創作家がプロであるか、アマであるか(あるいは無名か、有名か)、それによって随分見方が変わるのではないかという気がしています。
アマなら、少しでも露出を多くして人々の目(耳)に触れてもらいたいと考えるでしょう。お金が儲かるより、名が広まるほうが重要だからです。だから、タダでもいいから流通させたいと思うのです。
ところが、プロの視点になるとちょっと変わります。
ある程度、芸術の世界で飯が食えるほどの立場なら、自らの作品が安く見られることに抵抗を感じるようになるのだと思います。作品の使用に対価が伴えば、少なくとも経済的な価値は認められたことになります。現実に収入が増えることを期待するわけでなくても、金銭的対価が作品の芸術的価値と見なせるのなら、やはりきっちりとした対価を期待したいのでしょう。
しかしプロがプロでいられるのは然るべき市場があっての話。
前回書いたようにCDや本が売れない今、市場自体が崩壊気味で、もはやプロが成り立つ前提さえも崩れつつあるような気がします。
そのときにアマに十分力さえあれば、いつしか力関係は逆転していくのではないか、そんな気がちょっとし始めているのです。プロが声高に著作権を主張すればするほど、アマの出番が増えていくのではないか、と。
そんなわけで自分のことでいうのなら、地道ながらPD合唱曲や、自作曲のYouTubeへのアップなど、自ら発信していく方法を模索しているところなのです。
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January 19, 2008
CDが売れないそうです。
そもそも、90年代のバカ売れが異常だった、という話しもあるし、携帯の普及とネットサービスの多様化が、音楽の消費を鈍らせているとも言われています。
アーティストやレコード会社などの権利者側は、iPodのような再生機器からもっと補償金を取って、著作権収入を増やそうと考えています。もちろん、メーカー側は機器の価格が上がるのが嫌なので、それに反対。コピーコントロールといったDRM技術をコンテンツに適用して、技術的にコピーされない仕組みを推進します。
しかし、そういった技術は不便さを消費者に強いるようになるし、そもそもどんなDRMも、世界の誰かが破ってしまって簡単にコピーできる裏技術が広まってしまう始末。いまや、売られているDVDも、フリーのツールでコピーすることは可能です。
全てが堂々巡りで、著作権に関する議論は傍から見ると終着点が見えてきません。
その一方で、ますますCDは売れなくなり、市場から良質の音楽が消えてきます。レコード会社の人に言わせれば、一部のバカ売れアーティストが、その他のあまり売れないアーティストを食わせている現状があって、音楽文化を衰退させない使命感だけで、売れないアーティストにも投資しているのだとか。
それでも、コンテンツが売れなくなれば、売れないアーティストは切り捨てられていかざるを得ませんし、音楽制作にかけられる予算もどんどん削られるでしょう。いまどき、レコーディングは本物のミュージシャンがスタジオに集まって取ったりするのはまれで、アレンジャーや作曲者自身が自宅のPCで打ち込みで作ったオケに、歌手がスタジオで歌入れしてそれで終わり。アルバム一枚、100万円くらいしか予算が付かないという話も聞きました。
一方、有名ミュージシャンが大手レーベルを離れ、ネットで直接ダウンロード販売したり、無料で配ったりする試みも始めています。もちろん、有名だからこそ出来ることですが、こういった方法はいずれレコード会社やCD小売店のあり方自体を根本的に変える可能性を秘めています。
CDと同じく、出版業界もかなり危機的状態です。amazon があれば、欲しいものは小売店で買う必要などありません。
私たち消費者は、夜な夜なネットでタダで楽しめるコンテンツを探し、ダウンロードし、自分のPCに取り込みます。そりゃ金を払わなくて聴けるなら、それでいいじゃん、と思う気持ちを止めるのは難しいでしょう。お金を出すか出さないかは、そのアーティストへの入れ込み具合にもよるかもしれません。
しばらくはこういった状況に対して、暗中模索の状態が続くとは思います。
結果的にはここ数十年で出来上がった音楽産業構造に大きな変化があることでしょう。そういえば、昔私もこんなことを考えていました。本当にこうなるとしてもかなり先のことにはなるでしょうが。
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November 09, 2007
前回紹介したレディオヘッド。
実は、最近非常に面白い音楽の売り方で話題になっています。
例えばこちらをお読みください。
メジャーレーベルとの契約終了後、自分たちでネットで直接、新作のダウンロード販売を始めたのです。しかも価格は「あなた次第」。
記事の最後にあるように「無料ダウンローダーに対応した新しいビジネスモデルを考える時が来た」というのは、まさに私の予期した未来です。
つまり、将来的には全てのデジタルコンテンツは無料にならざるを得ないのでは、と私は思っています。それは、有料にするためにセキュリティをかけたり、コピー制限をかけるような仕組みの技術的コストがバカにならないからです。だって、ただ配るだけならファイルをサーバに置くだけで終わりですからね。
ただ残念ながら、無料になることを肯定した場合の経済的な仕組みまでは、全く予想がつきませんが。
いずにしても、時代は変わっていきます。
街から写真屋さんが消えていったように、レコード会社やCDショップもそのうち消えていくことになるでしょう。
この試みが、レコード会社、他のアーティストなどにどのように影響を与えるかが楽しみ。
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November 01, 2007
ネットを賑やかすたくさんのシロートクリエータ達。
彼らの欲しいものは、作品を閲覧したときに発生する著作権使用料でしょうか。
もちろん、お金は欲しいかもしれない。でも、お金を取ろうとすれば、誰も見ても(聞いても)くれないことは自分自身の行動を見ても明らかなことです。
お金を取る以前に、一人でもたくさんの人に見て(聞いて)欲しい。そしてあわよくば感想などを聞かせて欲しい。それが賞賛の言葉ならなお嬉しいのです。「たくさんの人」は自分の身の周りの人でなく、不特定多数の人であるほうがなおのこと、評価が客観的なような気がして嬉しい気がします。
結局、金銭的な報酬とは、不特定多数の人々の間接的な賞賛を意味しているのだと思います。そうであるなら、本来クリエータが欲しいものは、お金そのものでなく「自作品を鑑賞した他人の賞賛」なのではないでしょうか。
私自身の気持ちも全くそのとおりなのです。お金よりもまず、自作品を認めて欲しい、それが有名でないクリエータの偽らざる本音だと思います。
そして、ネットが少しずつ、そういった草の根クリエータの作品の提供の場を増やしていっています。
音楽も、文章も、イラストも、動画も、今や簡単にネットで閲覧することが可能になりました。
プロフェッショナルな芸術マーケットがビジネスとして成り立たなくなったとき、そこに金銭的損得とは別の価値観で評価されるような、新しいクリエータたちが生まれてくるような気がしています。
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October 25, 2007
微妙に前回とタイトルは違います。
著作物から、どうやって使用料を取るか、と考えている一方で、ほとんどお金にならない著作物を作り続けるたくさんのシロートさんがいます。
無論、著作物のレベルが低いことがシロートさんである所以なのですが、それはあくまで一般論。私の思うに、アマチュアであっても非常に芸術性の高い著作物を作れる人は少なからずいます。
そういう人たちが、なぜプロとして活躍していないかというのは実に牧歌的な疑問であって、どんなジャンルでも有名になれる人はほんの一握り、明日の飯の心配をしながら商業主義に魂を売るくらいなら・・・と考えるアマチュアが多くても何の不思議もありません。
しかし、そういうアマチュアクリエータが活躍する場がだんだん増えています。
例えば、ちょっと前に書いた「初音ミク」が流行っているニコニコ動画。「何という才能の無駄遣い」というコメントが誉め言葉として動画を流れていきます。
これに関しては、IT関連の論者たちもいろいろ注目しているらしく、才能が才能を呼び起こし、新しい価値創造のあり方として、無名な者同士のコラボレーションが大きな流れになるかも、と論じられています。
テレビ、雑誌といった媒体で、レコード会社、出版社などがアーティストを売り込む、という方法が緩やかに衰退していき、その代わり、ネットの中で利害とは無関係な人々が、コンテンツの楽しさ、凄さを論じ合う、という時代になれば、まさに芸術の世界にプロが必要なくなることになるかもしれません。
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October 22, 2007
PD合唱曲に関連して、ちょっと著作権のことなど。
ネット環境が発達した昨今、音楽や映像も簡単にコピーし、ネットを通じて世界に公表することが出来るようになりました。
そもそも、インターネット以前の社会では、レコードもビデオも実際のモノが無ければその中身も鑑賞できなかったし、そういったものを情報の劣化無しにコピーすることなんか出来なかったわけです。ところが、今の技術をすれば、情報は完全にモノから分離され、ネットワーク上で自由にやり取りが可能になってしまいました。
ですから、前時代的なものさしで著作権を運用することにはやはり無理が生じてきます。
今は私的録音補償金と言って、私的録音による損失金額を、メーカがMDなどに上乗せして売って、それを権利者に還元する制度があります。
今、その補償金を、iPodやPCからも徴収しようという話もあるようです。それを言ったら、メモリカード、USBメモリ、HDなど、全ての記憶媒体から補償金を取らなければいけませんが、そこには必ずしも著作物のコピーが置かれるわけでもありません。
そんなわけで、補償金制度も破綻しかかっているようです。
著作物を簡単にコピーできるような技術は悪いものなのでしょうか?
私たちはもうそんな便利な世の中に慣れきってしまいました。今ここにあるデータを、他人に渡すのはあまりに簡単です。でも、そんなに簡単に「悪いこと」が出来てしまう世の中も何かおかしい気がします。
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October 12, 2007
中南米、というか、もう限定しちゃうとアステカ、およびインカは、かなり気になる古代文明です。
そもそも、アステカ、インカを古代文明とするには、年代は新しすぎるのだけど、デアゴスティーニ的にはやはりこのあたりは外せないのでしょう。
なぜこれらが気になるかというと、世界史の中で、進んだ文明とある種遅れていたと言っていい文明が出会う、という非常に稀有な出来事があったからです。結果的には、いずれも進んだ文明(スペイン人)によって両文明は滅ぼされてしまいます。もちろん、ここで「進んだ」と言っているのは、単純に武器とかというような技術的な面なのであって、王様が国を治めているという点では、実は政治的にはそれほど違わなかったのかもしれません。
技術力や価値観の違う二つの民族が出会ったとき、どのようなことが起きるのか、それを最も極端に示したのが、スペイン人とアステカ、インカとの出来事であり、そこから私たちが学ぶべきことは多いと思うのです。
さて、「嫌いな」古代文明、というのはさすがに言い過ぎかもしれませんが、あんまり好きではないのは古代中国でしょうか。特に理由があるわけでないのだけど、どうも私のイメージでは、中国の歴史って有史以来、とても画一的な感じがしてしまうのです。戦国時代を除けば、王朝はだいたい同時に一つだし。
真面目に勉強すれば違うのだろうけど、ヨーロッパやメソポタミアのようなダイナミックさがちょっと無い感じがします。
そうか、エジプトがあんまり好きでは無いのは、同じ理由なのかもしれませんね。
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September 24, 2007
工業製品にも芸術性という尺度はあり得ます。ということは、それを設計、製造するメーカーにも芸術性が求められるわけです。
だからこそ、そもそも芸術性とは何なのか、その本質的な部分を考えてみたいのです。恐らく、芸術性を感じられる製品と、そうでない製品には、何らかの差があるはずだし、まさにその差に注目することが芸術性とは何かを考えるきっかけになるでしょう。
芸術性なのだから、色使いとか、造形とか、コンセプトとか、メッセージとか、そういうものがうまく調和して表現されている、というのがやはり必要なことです。言ってみれば、それらは芸術性が外面として現れる要素です。
何をもって、これらの組み合わせにセンスを感じるか、それはもう私には理論的に解明のしようが無いと感じます。それらは結局、一言、センスがある、ない、といったレベルの議論に収束してしまうからです。
しかし、そういったセンスのある外面性を出すために必要な条件というのなら、いくつか思いつきます。
例えば、コンセプトとか言うと、芸術性にちょっと疎い人は、どうも大層なお題目を言ったりとか、言葉の「意味」にがんじがらめになってしまう傾向があるように思います。意味を考え始めると、健全かつ建前的な方向にどんどん向かっていくことが往々にしてあります。そして、本来芸術が人の心を揺さぶるために持つはずの一種の毒が、そこでますます失われていくのです。
一つの例として、まずある新製品を出す際のコンセプトを考えてみることにしましょう。
こんな意見が出たらどうでしょう、例えば「平和」。もちろん、平和であることは素晴らしいことだし、戦争を続けている地域に対する憂慮も表現できるかもしれない。非常にポジティブかつ社会的に健全な主張です。しかし、題目が抽象的で製品の外面にどのように反映させるかは、大変難しそうです。
ではもう一つの意見として、「クラゲ」はどう思います? いや、単に今、私が思いついただけなんですが・・・。なぜ、クラゲなのか?後付けでなんらかの意味を付与することは可能ですが、究極的にはそこに意味はありません。ただ、ナンセンスでシュールな取り合わせが、人々の心を惹きつける可能性を上げるかもしれません。
もしかして、芸術性というのはこんなことの積み重ねかなと思えます。だからこそ、意味を議論するような会議の場で、芸術性を作り出すことはほとんど不可能のように思えるわけです。
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September 20, 2007
iPodが売れているのは、スティーブ・ジョブス個人の芸術的センスによるものが大きいのでは、と前に書きました。
最近では、携帯で au デザインプロジェクトなんてのもあって、デザイナーの名前が結構前面に出されたりもしています。そういう例などを見ると、工業デザイナーみたいな人たちが、個人の名前で活躍できるような土壌が生まれつつあるような気がします。
何か電気製品を、例えば掃除機を買いにいったとき、掃除機とは思えないようなとても奇抜なデザインで、聞いたことがあるような名のデザイナーが「私がデザインしました」なんて、宣伝文句が書いてあったりすると、やはり私なんか気に留めるような気がします。もちろん、そのデザインがただ奇抜なだけじゃなくて洗練されていて、センスのいいものだったりするなら、もしかして買ってしまうかも。
もちろん、まだまだ性能重視で買うかどうか決める人もいるし、逆にデザインを強調したようなものを嫌う人もいるでしょう。
それでも、確実に私たちの身の回りのものに、デザイン的な価値観や、そのモノの存在感のようなものを求めている比率は高まっていると思います。
だからこそ、それを選ぶ我々の芸術的審美眼、センスも試されます。
そしてもちろんのこと、そういう製品を作り出すメーカーのセンスも問われます。
では、そのような芸術的センスを持った製品を作り出すには、どのようにしたらいいと皆さんは考えるでしょうか。
敢えて反感をもたれる表現をするなら、会議や議論の中でモノゴトを決めようとすればするほど、商品の持つ芸術的パワーは落ちていくように私は感じられます。
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May 31, 2007
だいたい、洋モノの音楽の歌詞を訳すと、なかなか日本の歌詞ではお目にかかれないような内容がたくさんあるように思います。日本の歌詞のほとんどは、自然か恋愛を歌ったもの。ある種定型的な表現であることが聴く側に安心感を与えているのかもしれません。恋愛モノでも洋モノだとずいぶん卑猥になったり・・・
中でも日本の音楽に根本的に存在しない概念は宗教ではないでしょうか。欧米の音楽が宗教の中で育まれてきた歴史を考えると、その感覚の差は相当のものがあると思います。
今、日本で「私は、○○を信じまーす」とか「偉大な○○よ、私たちをお導きください」なんていう歌詞が音楽で歌われていたら、新興宗教とかそんな感じになって、すごいアヤしい感じになるのではないでしょうか。ひと頃、オウム真理教が選挙に出たときに、信者が歌っていた音楽を思い出します。
欧米人の場合、音楽というのは自らのアイデンティティを確認する手段である場合が多いような気がします。だから個人の信念とか、民族的な価値観とか、そういう言葉が音楽の歌詞になっていても全然おかしくない。
ところが日本人の場合、歌を歌うということは、むしろ個人的な価値観を封印して、人々の最大公約数的な価値観に合わせこむ作業なのかなと思ったりするのです。自己主張でなく、無条件な融和のための道具とでもいうような。だからこそ、場にそぐわない、ということに非常に敏感になり、結果的に無意識のうちに「クサいものにフタ」的行動を取ってしまうように思います。
私たちが洋物の音楽を取り入れるとき、無意識に自分の感覚に合わないものを排除しているのではないかと思ったりします。きれいで気持ちいい部分しか見ていないというか・・・
洋物のロックを聴いているという人も、話を聞いてみると、歌詞の意味なんかどうでもよくて音だけ聴いて楽しんでいるという人も多いのです。でも英語圏の人なら、歌詞だって耳に入ってくるわけだし、結局そういう聴き方自体が極めて日本人的というか、キレイなものしか見ないようにする意識の現われではないでしょうか。
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May 27, 2007
特に日本と欧米で感覚が違うなあと思うジャンルは、映画と音楽。
最近の映画で、先日も書いた「バベル」ですが、いろいろネット上の感想など見てみると、多くの人が不快で面白くないと言っています。さもありなん、という感じ。
おおよそ、美しいという価値観とは正反対のアプローチで作られています。ある意味、この世の醜いものを、普段の生活の中から拾い出して、執拗に描写しているからです。日本人的には直視に耐えられないリアルさが、その不快さを生み出しているのでしょう。
もちろんアメリカ人とて賛否はあるでしょうが、それでもアメリカにはああいった映画がアカデミー賞にノミネートされるだけの土壌があります。何か考えさせるものがある、という視点がアメリカのアカデミックな層には重要なのだと思います。
私自身はそれほど好きではないけど、映画監督の北野武(ビートたけし)がヨーロッパで受けるというのも何か同じようなものを感じます。どちらかというと、今の人気はヨーロッパからの逆輸入的な側面もありますね。
私が日本の映画で思うのは、その人間関係のうそ臭さ。
もともと美しくもあるはずがない人間関係も美的に処理されて、献身的な態度とか、ものごとにあたる情熱とか、無償の愛とか、登場する人物がすべていい人であり過ぎるんです。それは、テレビドラマにも言えること。日常に存在する嫌なものを、ドラマでなんか見たくないのでしょう。その気持ちは分からなくもないけれど、より深いものを表現しようと思っているクリエータにとっては微妙な心持ちではないでしょうか。
こんなことを書き始めたら、図らずも今日の朝日新聞に画家、岡本太郎のこんな言葉が載っていました。
「今日(こんにち)の芸術は、
うまくあってはいけない。
きれいであってはならない。
ここちよくあってはならない。
と、私は宣言します。それが芸術における根本条件である、と確信するからです。」
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May 26, 2007
ハーモニー春号のトップの特集、烏賀陽氏の話はなかなか興味深い内容がたくさんです。私も「Jポップの心象風景」という本は持っており、日本人の民族的な特徴をJポップから読み解こうとする視点は面白いと感じていました。
ハーモニーにも書いてありますが、日本の音楽は世界で全然売れていない、という現実があります。これはJ-POPだけの問題だけでは恐らくないでしょう。合唱にしたって、日本の合唱曲は海外でそれほど広まっているとは思えません。
何か、そこには芸術に対する深い感覚の相違というのがあるのではないか、とそんなふうにも思えます。
それは、西洋の芸術と日本の芸術の非対称性という問題とも微妙に絡んでいると思います。日本人は西洋の芸術を素晴らしいと感じ崇拝する一方、日本の芸術はまだ西洋には追いついていないと考えている。そして現実に、海外ではほとんど日本の芸術は鑑賞されていません(音楽はその傾向が強いですが、他のジャンルでは世界に通用するモノはないことはないです)。
日本人論みたいな大きな話にするつもりはないのですが、そういった日本人の文化・芸術に対する一つの特徴として、「クサいものにフタ」的な意識が強くはないかな、ということをふと思ったのです。
私たちは、音楽や歌に美しいものを知らず知らずに求めているのではないか、見たくないもの、論じたくないもの、公序良俗に反するもの、そういうものを芸術から廃し、芸そのものがひたすら非現実(理想世界)で美しくあることを良しとする感性が根深くあるような気がしてきたのです。
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April 19, 2007
クラシック音楽について、いろいろ書いてきましたが、すっかり話題が発散してしまいました。
つまり、まとめてみると
・クラシックは予定調和的で面白くない
・だいたい、本質的に発展していない
・それに権威主義的
それはなぜかというと
・100年くらい前に標準化された編成でオーケストラが成り立っている
・それと違う編成の曲は演奏されにくく、レパートリーも固定化された
・そのため、20世紀の楽器の進化に背を向けてしまった
楽器の話、編成の話は、クラシックを語る一側面でしかないとは思いますが、一つのジャンルが成立し、形式化し、伝統芸能化する典型的な流れを表しているような気がしてなりません。
なので、新しい価値観を模索しようとしている芸術家気取りの私としては、クラシック音楽とは過去の偉大な教科書の役割でしかないのかもしれません。芸術として今、現在をどう切り取って提示するのか、そのための感受性は、もっともっと別のジャンルからの刺激が必要なのです。
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April 14, 2007
自分でも大それたテーマだなあ、と思いつつ、相変わらず思うにまかせて書いてみます。
本来楽器というのは、絶えず改良が加えられ、変化していました。現在のオーケストラの楽器だって、古典派くらいの時代までは試行錯誤の連続だったのです(それが古楽というジャンルを生み出す要因でもあるわけです)。楽器の発達とは、前も言ったように扱いやすさや大音量化の追求であり、ピアノのような鍵盤楽器だけでなく、管楽器、弦楽器、そして打楽器もどんどん進化していきました。
しかし、音楽文化が国境を越え始めるに従い、進化と同時に標準化が必要になってきます。でなければ、オーケストラの編成の規格化が出来なくなり、ひいては同じ曲を世界各地で演奏することが不可能になります。
この標準化は、例えばJIS規格とか、最近であればDVDの規格とか、昨今ではそういう形の標準化団体があるわけですが、恐らく楽器の標準化にはそんな人為的な動きは無かったように思います。つまり、長い時間をかけながら、いろいろな人が取捨選択をした結果、なのでしょう。そういう意味では、自然淘汰による生物の進化と似ているかもしれません。
しかし、実は標準化は進化を妨げる作用を引き起こすことがあります。
例えば、誰かが6弦あるバイオリンを作ったとします。それにより音域や表現が拡がり、作曲家が新しい音域や表現で曲を作るかもしれません。しかし、その曲は新しいバイオリンでなければ演奏できません。そのバイオリンを演奏できる奏者、それを抱えるオーケストラというインフラが整備される必要があります。それは取りも直さず標準化された形態を変更する作業であり、世界中が同意しなければ先には進まないのです。
クラシックが標準化、規格化されつつあったのとほぼ同時に、全く規格外の新しい形態の音楽が発展し始めました。私も歴史的にそれほど詳しいわけではないですが、それがいわゆる現在のポピュラー音楽の大元になっているはずです。例えば、楽器としては比較的最近登場したサックスがクラシックよりもポピュラー音楽に使われることが多いということも、こういった流れと関係が深いのではと思います。
こうやって、クラシック音楽が楽器の発達(編成の規格の変更)を許容しづらくなった20世紀に、ポップスやロックと言われる音楽はそれを尻目に楽器の発達を貪欲に取り入れてきたというわけです。
そして、何より20世紀(特に後半)における楽器の大変革というのは電気化という点にあったと思います。
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April 10, 2007
例えば、よく合唱団の練習には公民館を使いますが、その部屋にはピアノが置いてあることでしょう。実際、それほど値段は高くないアップライトピアノですが、それなりに乱暴に扱われるし、毎年調律をする必要はあるでしょうし、結構維持費がかかるはずです。それが電子ピアノに変わるなら、アップライトピアノよりは安いでしょうし、何より調律の必要がありません。多くの自治体が赤字の折、これは結構なコストダウンになります。
同じように小学校や中学校などのピアノはどうでしょう。各種集会場や、教会などは?ホテルのラウンジや、レストランなど、用途として電子ピアノでも構わない場所はいろいろあるように思います。商売ならなおさら、経済性でものを考えれば電子ピアノで十分、という判断はあり得ます。
それでも、芸術というのは費用対効果で考えることを拒絶させるイメージがあります。これが、先日紹介した「金と芸術」という本でも言っていた芸術の神話というやつです。あるいは、前々回書いた権威主義的な発想とも言えるかもしれません。
だから、実際にはそう簡単に、いろいろなピアノが生から電子にすぐに変わることはないでしょう。まだまだ、生ピアノ信仰は根強いと思います。安物であろうと何であろうと、電子ピアノが目の前にあるよりは安心してしまうというのが一般的な心理だと思います。
しかし実際、アマチュア合唱団の練習時に生ピアノでなければならない必然はそれほどないし(ピアニストは嫌がるでしょうが)、ましてやピアノを習いたての子供など何をかいわんやです。(などというと、最初から本物の音に触れさせるべきだ、と逆に説教されそうですが・・・それだって、本物の音って何?と言いたくなってしまう)
皆が現実的に考えられるようになるのには、まだ数十年が必要ですが、その頃までにはじわりじわりと身の回りに電子ピアノが忍び込んでいくはず。
もちろん、生ピアノは絶対なくなりません。むしろ、少量生産になっていくことで単価は高くなり、生ピアノのステータスは逆に今より上がっていくことになるのではないでしょうか。
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April 08, 2007
あてどもなくクラシック音楽について書いていますが、そこから派生して楽器のことなど考えてみましょう。
今、もっとも普及していて、多くの演奏人口を抱える楽器とはやはりピアノだと思います。クラシックでも、ポピュラーでも様々な音楽で使われ、学校教育で広く普及しており、そして一台だけで音楽の骨格を奏でてしまうことも可能な万能楽器。
また鍵盤をスイッチと考えると、最も機械化、電気化が容易なため、生の代用として多くの電子ピアノが作られるようになりました。昨今では、電子ピアノの性能も上がってきています。では、今後生ピアノと電子ピアノの関係はどうなると思いますか。
こんなことを考えるのも、これからの音楽を考えるのに、非常に象徴的なことだと考えるからです。
楽器は大音量化、扱いやすさ、という点を改良するために、これまで発展してきたと言えると思います。大音量化は電気拡声(つまりPA)が可能になった時点で、新しい局面を迎えました。この点については、また別の話題で書くこととして、一方で電子化は扱いやすさに貢献しています。
例えば、ピアノは大音量化のため、弦の張力アップが必要で、そのためにフレームが巨大化し、頑丈になってきました。そのため、最上級のグランドピアノなどは楽器自体が非常に大きくなっています。また、きちんとした音を鳴らすためには、調律や整音も欠かせません。
しかし、その問題は電子化によって解決可能です。乱暴に言ってしまえば、電子ピアノは鍵盤とスピーカがあれば事足りてしまうのです。だから楽器も小さくて済むので移動も簡単になります。また電子音なので音の調整も不要だし、鍵盤とスピーカがへたらない限り、メンテナンスフリーです。
もちろん、多くの人が生ピアノが電子ピアノに取って代わられるとは思っていないでしょう。
鍵盤のタッチもまだまだ生には及ばないし、そもそも生楽器の持つ豊かな響きをスピーカで再現するのはほとんど不可能だからです。どんなに技術革新しても、そうそう生と同じレベルに電子ピアノが到達するとは、正直私自身思っていません。(←開発者のくせに・・・)
ただ私は、仮に電子ピアノが生と同じレベルに達しなくても、今後10~20年くらいの間に、多くの生ピアノが電子ピアノに取って代わられるのでは、と本気で思っています。
それは、時代が変わることによって人々の価値観が変わってくるからであり、生ピアノにはない電子ピアノのアイデンティティが確立してくるからということなのですが、この続きはまた、ということで。
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April 05, 2007
前回紹介した「金と芸術」によると、クラシックはハイアート、ポップスなどの大衆芸術をローアートと仮に称して、このハイアートとローアートの非対称性について語っています。
ローアート側の人は、ハイアートに対して尊敬の念を持つが、ハイアート側の人はローアート側を見下す。人々の芸術の嗜好そのものが社会的階層と密接に繋がっており、その二つの不均衡さが非対称性ということ。日本では若干、状況は違うような気もするのですが、どのような芸術を楽しむのかということが、その人の社会的地位を示す一つの尺度として機能するという要素はあるのだと思います。
実は、私がクラシック音楽で時々違和感を覚えるのは、クラシックに携わる人、あるいはマニアな方々にはびこる権威主義的な態度です。有名演奏者、オーケストラを聞きに行くためにはいくらでもお金を出して、賞賛を惜しまない。そういった態度の中には、本当に分かって言っているのかアヤしい言動もあるし、権威を利用して自分の判断を正当化しようとする魂胆が見え隠れします。
例えば、○○コンクール優勝とか、コンセルヴァトワールに留学とか、そういうのも権威として機能している重要な言葉。しかも賞賛する言葉って、音楽の具体的なことじゃなくって、豊かな響きがどうのこうのとか、力強さと繊細さを兼ね備えてどうのこうのとか、何やら抽象的で感覚的なことばっかり。
「権威が認定したスゴイもの」というのは、私たちの評価にとても影響を与えます。誰とても権威筋の判断とは無縁にものごとを判断することは出来ないのは確かなこと。
それでも、その権威を借りて知らないうちに自分の意見と同化させてしまうのって、見ていて気持ちの良いものではありません。常識知らずで恥ずかしいと思われるのも嫌だけど、もう少し自分の力で芸術の本質を見抜こうとする努力をしないといけないし、わからないことは分からないと謙虚に言うのも大切だと思うんですけどね。
(ひとつささやかな権威主義の例: モーツァルトのレクイエムで、あなたはジェスマイヤーが書いた部分は音楽的に質が低いと思いますか? もしかして、その意見はモーツァルトという権威に対する安心から起こったものだとは思えませんか?)
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March 29, 2007
ちょっと別の視点でクラシック音楽を語ってみましょう。
クラシックと聞いて思い浮かべる編成はなんでしょうか?やはりオーケストラ?それとも室内楽、それともピアノ?まあ、一般的にはオーケストラということだと思いますが、一口にオーケストラと言ってもいろいろな編成があります。一晩のコンサートでモーツァルトとマーラーを演奏すれば、あまりの演奏者の違いに驚きます。
この演奏者の数の違いって、冷静に考えるとオーケストラ泣かせな事態ではないでしょうか。一晩の演奏会でも降り番の人がいたり、エキストラがいたり、人のやりくりが大変。練習日程の組み方も難しくなるはずです。ちゃんとどの日にどの曲を練習するか決めないと、無駄に待ち時間を過ごす人も出てくるでしょう。
オーケストラが一つの団体として存続を続けるためには、そもそもオーケストラが必要とすべき楽器が決まっていなければなりません。実際には、弦楽器、木管、金管、そして打楽器の奏者1セットが揃っていれば、オーケストラとして成り立つわけで、つまりそういう編成がオーケストラ音楽の標準規格と言えるでしょう。
こういった編成の規格化があるからこそ、オーケストラという団体が成り立っているとも言えるわけで、好き勝手な編成で曲を書いたとしても、やってくれる団体が存在しなければ意味がありません。
ところが、実際には新しい音楽を作りたい人は、いろいろな新しい編成まで考えていきます。最近はテレビ、映画でもオーケストラ+ドラム+エレキベースといったポピュラー的リズム隊を足した音楽が増えてきたように思います(もっともその場合、生のオーケストラを使っていない可能性もありますが)。ポピュラー音楽が世の大半である現在、いわゆる生楽器はむしろバンド的編成の中に取り込まれていく、という流れのほうが自然なのかもしれません。
残念ながら、オーケストラが今の編成で存続しようとする限り、新しい音楽を演奏することは難しくなりそうです。そうなると、やはり18,19世紀の音楽をレパートリーにし続けるしか無くなってしまうのです。
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March 26, 2007
音楽理論の多くがクラシック音楽から発祥しているのは確かな事実。そういう意味で、クラシック音楽は学術的にも、芸術としても非常に価値が高いものです。
しかし、その一方、芸術というのは常に時代を反映するものであり、世の中をどのように切り取って提示するのか、ということがその本質だと思うのです。同時代性を抜きにして創作活動は語れません。
小説も映画も演劇も、そして美術も舞踏も、全て今を意識しながら新しいものが生まれ続けているはずです。例えば、何百年も前に書かれた小説を読んで感動することは可能だし、そこから得られるものは多いのだけど、小説はそれだけではなく、今現在、新しい価値観や視点を我々に提示しようと、今を生きる小説家たちは日夜頑張っています。
時代が芸術を生む一方で、芸術が時代のマインドを生んでいく、その連鎖が文化を形作っていきます。
要するに、時代はどんどん変わっていくのです。その先端に居たいと思うか、その流れに背を向けようとするかは、それぞれ個人の趣味の問題ではあるのだけど、私には一般的にクラシック音楽ファンというのが、やや後ろ向きな人々に感じられてしまったりします。
クラシック音楽の芸術的価値に疑問をはさむつもりはないのです。数世紀を超えて残った音楽はやはり素晴らしい。だからこそ、その素晴らしさを理解したうえで、今の時代に合うものが生み出されるべきでしょう。
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March 23, 2007
今、結構面白い本を読んでいます。読了後、またご紹介しますが、芸術全般にまつわる経済論のような内容。
それに直接関連しているわけではないけど、クラシック音楽というのは、実際に音楽市場として成り立っているのでしょうか。まあ、そのように乱暴にクラシックをひとまとめにするのも野暮なんでしょうが、世の中一般的に、クラシック音楽を好んで聴いている人がそれほどたくさんいるとは思えません。
恐らく、クラシックを好んで聴いている人は確実に年々減っているのだと思うのです。
そして、その理由は何かと問われれば、あられもない言葉で言うのなら、つまらない、からではないでしょうか。あ~言ってしまった。
私とて、非クラシック系音楽を聴くほうが最近は多いです。自分自身がどうしてそうなのかと問われれば、非クラシック系にたくさんの面白い音楽やアーティストがいるからであり、自分が感動や刺激を受けることが多いからです。もちろん、感動の量や質を問うことは難しいです。しかし、私から見れば、クラシックは全般的に、保守的で予定調和的であり過ぎます。そもそも、現代に作られた音楽を演奏していないことが根本的におかしい。
もちろん、クラシック音楽の中に非常に高いレベルの音楽性を発揮し、それをきっちりと演奏する素晴らしい演奏者がたくさんいるのは確かです。私もたくさんの好きな作曲家はいるし、たまには演奏会にも足を運びます。しかし、本当に私が求めているのは、クラシックでは感じられないような、もっともっと狂おしいほどの革新なのかもしれません。
こういったメタな話、しばらく書いてみようと思います。
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February 13, 2007
新聞かなんかを見て、これ買ってみようかなあ、と家でつぶやいていたら、しばらくして「はい、プレゼント」と妻が買ってきて手渡してくれたのです。
それは何かというと、コレ。
歴史とか、古代とか、考古学とか、そういうのって(そんなに詳しいわけではないが)好きなんです。この企画、そんな私の心をくすぐります。ロマンを感じますよねぇ。
しかし、問題なのは……このシリーズを買い続けるかってこと。ちなみに妻がプレゼントしてくれた創刊号は特別定価の290円。それ以降、毎週560円。ちなみに今のところ全100号の予定らしい……。しかし、一冊手に入れたからには揃えたくなるのが人情というもの。うぅ、悪魔のプレゼントじゃ!
さあ、もしあなたが古代の歴史に興味があるなら、来週以降(2年近く)買い続けますか。
結局私は、定期購読の申し込みをしてしまったのでした。
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January 21, 2007
いわゆる理系、文系という区分けが、そのまま学問の種類として人文系、自然科学系となり、各学問はそこからさらに分化されていくという考えが一般的。
しかし、最近思うのは、そういった学問の分け方がだんだん意味なくなってきているように思うのです。特に私には世の中の様々な学問が理系化しているように感じます。いや、理系でも文系的素養が必要とされたりもするので、世の学問が全体的にクロスオーバーし始めているのかもしれません。結局、どんな学問でも幅広い教養が大事ってことなんでしょう。
例えば、言語学なども、音声を扱うとなると音声の解析が必要となります。そうなると、周波数解析の手法や、フォルマントなんていうことは最低限知らなければいけません。経済などは、もうほとんど数学みたいで、経済理論なんてのも数式で表したりします。
また、どんな学問でも最後には人そのものに研究の目が向かいます。人そのものとは、人間の思考を研究するということであり、これは脳科学によって解明されるべき内容となっていきます。そもそも、様々な調査結果などを分析するにも統計学的な処理は必要で、データを扱う一般的な手法は、もはや理系でなくても必要なことだと思われます。
コンピュータが生活の中で大きな役割を担うほど、否応無しに人々に理系的センスを要求しはじめます。コンピュータに関する知識や技術は、少なくとも今後は義務教育になるくらい基本的なリテラシーとなるに違いありません。
前振りが長かったですが・・・つまり、芸術においても、理系的な側面が今後クローズアップされるのではないか、という想像が出来るわけです。前回書いた明和電機なども、一種の理系芸術であると言えるでしょう。機械を作ることの中にも芸術的な感動を与えることができます。機械がどのように動くのか、どのようなUIを持つのか、どのようなデザインなのか、そういったコンセプトそのものが芸術的審美観で語られても、少しもおかしくありません。
一昨年、朝日作曲賞の佳作を頂いた拙作「E=mc^2」なども、科学理論の中にある種の詩情を感じて作ったものです。相対性理論の世界に抱く憧れを詩に、そして音楽にすることも、これは立派な芸術活動であると思います。何かに心を揺り動かされたのなら、そこには必ず芸術的萌芽が存在するはずなのです。
宮沢賢治など、そういった理系芸術のはしりではないかと思ったりします。詩の中に、科学用語などが平気で使われたり、宇宙、星、といったSF的なキーワードにも溢れています。
芸術というと文系的なイメージしかないあなたへ。これからは理系の芸術が流行りますよ。
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