August 18, 2009

で、あなたの意見はどうなの?という社会

衆議院選挙が始まりましたね。
まあ、ほとんどの人が各党の政策の談義をしていると思うので、敢えて違う視点で語ってみましょう。
今回の選挙の面白さは、政権が変わるかもしれないという、まさにその点にあると思うのです。
今まで、ほとんどの場合、有権者の出来ることは知れていました。政権党はずっと同じだったし、派閥の争いは、私たちにとって客席からリング上の戦いを観ているようなものでした。目の前の争いを他人事のように観戦しているだけで、自らが選択する主体になるという意識はあまりなかったと思います。

政権交代が起こりうる海外の先進国の様子などを見ると、一人一人が実にはっきりと意見を言い合い、主張します。時には興奮のあまり手が出てしまうこともあるし、コミュニティを分断してしまうことさえあります。
私たちはそういう状況を密かに羨ましく思いながらも、はっきりした意見を持たずに、長いものに巻かれていたほうが、少なくとも表面的には平和に生きていくことができると感じています。
狭い日本でそれなりに一つの国家が長い間継続するには、そういう国民のメンタリティがどうしても必要だったのかもしれません。「空気を読む」とは、まさに言い得て妙。場を読み、全体の情勢を見ながら、自らの意見を決めていくという行動が私たちにとって重要だったのだと思います。
その縮図が国会であり、政治家の世界でした。私たちは彼らを見て、自らの属するコミュニティで同じような行動を取っていたのではないでしょうか。

しかし、今回の選挙は、そんな日本をほんの少しだけ変えるきっかけになるような気がするのです。
各自が支持する政党を応援し、そのために行動を起こす。まだまだ、その波は大きくはないけれど、政権が二回、三回と交代するたびに、私たちは自らの意見を持たざるを得なくなるのではないでしょうか。
政治家が討論の場で理想を叫び合うことによって、私たちの意識が少しずつ変わり、私たちも日常生活で理想を語り合うようになっていく、そんな風に世の中が変わっていくと日本の未来も明るい気がするのですけど。

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December 25, 2005

企業倫理とは?

テレビを見ていたら、今年の事件には、企業の倫理観が欠如したと思われるようなものが多かった、とニュースで報道していました。確かに、最近のマンションの構造計算書改ざん問題、松下の電気ストーブ問題、東証の度重なるミス、JRの脱線事故、などなど思い当たるものは多いです。
そういった事件、事故に対する多くのコメンテータの意見の大半は、最近、日本人に倫理観が欠如しているのではないか、というものです。あるいは、それぞれがやるべき仕事がきちんとしないことに憤慨される方も多い。もちろん、市民側の気持ちとしてはこうした事件、事故、犯罪というものを糾弾し、きちんと責任を取ってもらうべきでしょうが、私には何か本質は別のところにあるようなそんな気がします。

実際、倫理観が欠如した人は、恐らく昔から存在したのだと思うのです。今になって急に増えたとは思えません。要は今まで表面化しなかったのです。
その表面化した原因は何なのか。
一つは、グローバル化、ボーダーレス化による大競争時代のおかげでしょう。情報も交通も限定されていた時代は、それぞれの企業が活躍する範囲は限られていたのですが、今や地方だけでなくて、日本全体、世界全体を相手に回さなければいけない時代です。
簡単に言えば、安くなければ速くなければ競争に勝てない。たくさんの企業が競争に負けて、消えていっています。そんな中で、誘惑に負けて、粗悪品を売ってしまうことがあるのは避けられないことではないでしょうか。鉄道や住宅供給といった生活に根ざしたところでさえ、そういった競争のしわ寄せが来ているわけです。ウチの会社だって、コスト下げようとして安い部品を使ってひどい目にあったこともあります。

もう一つ言いたいのは、世の中のいろいろなことが効率性、便利さを目指すために、規格化され画一化されるようになっているという点。
こういった透明性への希求は、なあなあで済んでいたいい加減な慣習を一つ一つ暴くことにつながります。例えば、構造計算書の話だって、耐震建築のルールが決められていなければ、問題にさえならなかったわけです。JRの運転手だって、効率を追求しなければ、まるで機械のようにミスのない仕事を要求されることもなかったかもしれません。
この社会が効率性を追求すればするほど、規則は増え、私たちの行動には規制が伴うようになります。こういった時代の流れは、一方では正しいことではあるのだけど、私たち一人一人に課せられる義務だって当然増えているわけです。
他人の行動を糾弾する私たち自身、全てのルールを完璧に守っていると断言できますか?
もし、あなたがゴミ出しのルールを守らなくて、大変な事件が発生してしまったらどうしますか?世間はあなたをすごく批判することでしょう。

私は、今事件に登場するプレーヤが法のもとに裁かれるのは仕方ないとしても、感情的に批判するだけのお気楽な態度に組みしたくないのです。いつだって明日は我が身だし、こういった社会自体、私たちがどう考えるべきか、もっと議論の必要があるのではないでしょうか。

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August 09, 2005

郵政解散に寄せて

本来、政治ネタを書くような場所ではありませんが、たまには備忘録も兼ねて、政治のことなど書いてみようかな・・・。
昨日、郵政法案が参院で否決され、小泉首相は衆院解散に踏み切りました。
私はこの場で法案の中身について意見を言うつもりは毛頭ありません。興味があるのは、ある意見を通そうとするのに、政治家各人がどのような行動を取ったかということです。これは、ひいては我々が会社や様々な集団の中でどのような政治的活動を行うのか、あるいはどう行うべきなのか、考えるのによいきっかけになると思うのです。
もっと言えば、欧米と日本の政治風土の差、のようなものを私たちが考える良い機会とも思います。
欧米では大統領や首相の在任期間が長いし、権力も集中していて、やりたいことが十分やれるし、そのため改革もドラスティックで、その分、反対派の行動も過激です。アメリカだって、政権が民主党から共和党に変わっただけで、戦争をバンバンやっちゃう国に大変化してしまうわけです。
それに比べると、日本の政治は複雑で難しい。どんな議論だって完全に意見が一致することなどあり得ないのに、それでも集団の維持を最優先にしようとする力学が強い。だから、意見を曲げても賛成、反対することもあるし、そういった恩を売る行為によって、意見が違うものたちが持ちつ持たれつの微妙な関係を続けるのです。
こういった曖昧な関係に敢然と立ち向かったのが小泉首相でした。
それだけのことをやれる人格自体尊敬に値するのですが、こういった日本的な政治風土の中で、欧米的な政治行動を貫いたのはまさに変人といわれる所以です。いや、欧米にいたらそれが普通なのだけど、日本では変人になっちゃうんですね。

それでも、日本で生きていくためには、「変人」であり続けるわけにはいかないんです。それは、誰もが経験していることだと思います。人の意見をよく聞き、適宜そういった反対者の意見を取り入れながら、肝心なところは引かない、といった強さ、そしていったん自分の意見がマイノリティだと分かったとき、強い主張はせずに、小さな要求だけでも反映させてもらう粘り強さ、そういった政治態度が実際私たち(日本人)の生活では求められているように思います。
たまに上のような議論を収拾しようとする流れから外れるような人がいますが、そういう人は煙たがれてしまうんですね。みんなの意見をうまくまとめられる人物こそ、一般的には高度に政治能力のある人間なのです。

私たちが政治的にどう成熟していくのか、なかなかこれは難しい問題です。しかし、少なくとも、国民一人一人が選挙に行って意思表示をするという習慣を持つことが、その最低ラインの必要条件だと思えます。それは自己主張をしない日和見的な態度から脱する第一歩にもなるからです。

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September 04, 2004

語られる言葉

今週のニュースで何回か見たのは、アメリカの共和党大会の様子。
政治の話をしたいわけではないけど、私にとってはとても興味深いのです。何故かというと、アメリカと日本のあまりの国民性の違いに驚くからです。
だいたい、日本で党大会と言えば、国会議員や地方議員が集まって、ダラダラと長い話をして、最後に「ガンバロー!」とか言って終わるのが関の山。ところが、ニュースの共和党大会を見ると、議員だけじゃない市井の人が集まり、演説者がうまいことを言う度に歓声が上がり、話し手も聴き手もものすごいハイテンションです。しかも、全員で「もう4年!」とか言って叫ぶんですよ。

そもそも、事実上二大政党のアメリカでは、国民は民主党か共和党しか選ぶことができないわけです。ところが、国民の大多数はそのどちらかの陣営にしっかりカテゴライズされます。大半が無党派層である日本とは違い、たった二つの政党にほとんどの国民の支持は分かれるのです。
話によれば、各政党の支持層はそれぞれコミュニティがあり、例えば住んでいる場所だけで支持政党は分かるほどだそうです。つまり、同じ政党支持層は同じような場所で同じような仕事をしているわけです。共和党支持者が住む町に民主党支持者が住もうとしようものなら激しいバッシングに合い、結局引っ越さざるを得なくなるそうです。
アメリカでは個人の意志がはっきりしていて自己責任でモノを考えることができる成熟した人々が多い、と一般には言われています。確かに、自己主張は激しいが、その主張は必ずしも個人一人の意志で形成されたものではありません。その人が住んでいる場所、親の環境、職場によって、彼らはきっちりとカテゴライズされ、その枠内で決められた政党を支持しているように思えます。
そういう意味では、信頼がおける政党がない、という日本人のほうがよほど個人単位で支持政党を考えているような気さえしてしまいます。

アメリカにおいて、支持政党というのが宗教のようだと考えるのはなかなか言い得て妙です。例えば、カトリックとプロテスタントのような。
国民は、宗教を選択しなければいけません。そうしなければ、様々なコミュニティからの特典が得られないからです。両陣営ともその勢力が拮抗しており、だからこそ勢力争いは熾烈を極めます。現在の政権に不満があれば、大規模なデモも起こりますし、逆に支持者による集会もそれに対抗して行われます。日本人が、エセ正義感でデモ行進するのとは訳が違います。彼らは身も心も宗教に染まっており、その閉ざされた正義感の中で極端に熱くなっているのです。それは日本人からしてみれば、極めて排他的な考え方でしょう。

宗教は人々を熱狂させます。
彼らは自分たちが熱くなるために、優れた演説を好みます。人々を高揚させるような演説が出来る人がヒーローになるのです。そこでは、冷静で知的な言葉はあまり必要ありません。敵を攻撃し、単純な言葉で自分たちを鼓舞する、そういった言葉を短く、鋭く、そしてうまい比喩で話せる人間が優れたリーダーだと見なされるのです。
こういった文化で育った言語というのは、当然ながら強弱アクセントが激しいものになるのかなと思えます。日本語では、どんなにかっこ良く演説しようと思っても、ああいった熱狂を生む感じが想像できません。日本語の演説というと、ダラダラ話して、肯定か否定か文末の意味が不明確になり、意味のないお世辞に溢れた、アメリカの演説と対極にあるような感じが容易にイメージできます。

自己主張しやすく、人々に影響を与える、そういう言葉、「語られる」という要素が、圧倒的に日本語に足りないような気がしています。それは恐らく、日本の文化にそのように言葉で人を扇動するというような必然性がなかったからなのかもしれません。また、日本人はそういった行動を冷めた目で見る傾向があります。校長先生の話とか、社長の話で歓声が上がって、人々が盛り上がるなんて日本では想像も出来ないでしょう!
その中でも小泉首相は、日本語でアメリカナイズされた演説が出来る稀有な政治家に思えます。就任当初よりは勢いがなくなりましたけど。

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