June 21, 2008
ちょっと前にNHK BSでやっていた小澤征爾とユンディ・リの番組を見て、とても面白かったので買ってみました。
若手ピアニストとして注目されているユンディ・リの激しくも繊細な演奏も心動かされたのだけど(中国ではアイドル並みの人気だとか)、それよりもプロコ好きであるにも関わらず、ピアノ協奏曲第2番って実は聴いたことなくてその音源が欲しかったというのが主目的。
プロコフィエフがピアノ協奏曲第2番を作曲したのは、22才のとき。その前衛的な響きに当時はほとんど理解は得られませんでした。その後、この楽譜はロシア革命の混乱の中で失われてしまい、約10年後にプロコフィエフが記憶を元に新たに復元改定。もちろん、現在残っているものはその復元版です。
聞いて思ったのは、何しろ全編プロコ印で溢れていて、これぞプロコフィエフという楽想の連続。確かに他の協奏曲と比べて旋律のキャッチーさが無いので、それほど一般的には有名ではないのかもしれないけど、プロコフィエフの鋭角的な旋律や不思議な和音感覚が好みなら、この曲はおおはまりすると思います。
恐らく、10年後に書き直したっていうのも、実は良い方向に向かっているように思います。もっとも、20代前半でこんな曲を書いたこと自体、とんでもないことですけど(私的には)。
プロコの何がいいって、私にとってはクラシックというよりロック的というか、もっと音楽の持つ原始的な激しさのようなものがたくさん詰まっていること。ある意味、貴族的とか、サロン的とか、教養的とかそういう世界と対極にある価値観なのかも。
時代が変わっても失わない反骨心のようなものが背景にあって、冷静な攻撃性というか、奇形に対する偏執的な愛情というか、そういう要素をふんだんに持っているのです。
もう一つは曲全体のメカニカルな雰囲気。こういう硬質な音楽が好きなんですね、私は。ぐにょぐにょにテンポを揺らす演歌的価値観の対極でもあります。
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May 31, 2008
上原ひろみのニューアルバムが発売されました。
これまでオリジナルオンリーだった上原ひろみがスタンダードに初めて挑戦したアルバム。スタンダードといっても、ジャズ的な意味でのスタンダードではなくて、様々なジャンルから曲が選ばれているというのが特徴です。
例えば、ドビュッシーの「月の光」、デュークエリントンの「キャラバン」、坂本九の「上を向いて歩こう」、ジェフベックの「レッドブーツ」など。
何をリスペクトして、自分は何者であろうとするのか、アーティストのそういう方向性がこういったカバーアルバムでは、より鮮明に見えてきます。そういう意味で、選曲そのものが興味深いですね。クラシック、ロック、ジャズ、何にでも影響を受け、いいものはいいんだ、というシンプルかつ、自分の感覚を信じる強い信念みたいなものを感じます。図らずも編曲の話題の後なので、やはり上原ひろみはレベルが違うなあ、と改めて思ったり。
サウンドは率直に言えば、オリジナルが無くなった分、攻撃的で技巧的なテーマやフレーズが減り、表面的にはややおとなしくなった印象。ジャズマニアから見れば、オリジナルをどのように料理したか、という別の興味があるのでしょうが、私はまだそのレベルには達してはいないかも。
ただ、「月の光」はいささか無理やりジャズのフォーマットに持っていこうとして、それはそれで興味深いのだけど、もっと他のアプローチはないかな、とは思いました。
とはいえ上原ひろみの場合、ライブになるとCDでは聴けない激しさや、表現の幅の広さを見れるので、生演奏を聴くとまた一曲一曲のイメージも変わるかもしれません。
また、機会があればコンサートに行ければいいのだけど。
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April 07, 2008
J-POPの話題ついでに、私の思うところなど語ってしまいましょう。
はっきり言ってしまえば、前向きな歌詞が嫌いです。地に足が着いていない嘘っぽい詩が嫌いです。何でもかんでもポジティブに捉えられる能天気さが嫌いです。
だから教育者が好むようなポピュラー音楽はおおむね嫌いです。
芸術には根本的に毒が必要なのだと思っています。それはJ-POPとて同じこと。何かギョッとするような音や表現、言葉遣い、その中で表現される無常観や絶望感。そして、そのような状況でこそ見出される希望、というような、一見グロテスクなもののほうに本質が隠されていることが多いと感じます。
もちろん、何でもかんでもヘンテコであればいいわけじゃなくて、その毒の入れ方にセンスが必要なんです。そのセンスが足りないとかなり引かれます。それが怖くて力の無い芸術家は毒を入れることが出来ないのでしょう。
そもそもロック音楽は反抗、反骨心から発生したものでした。毒があることにその本質的な価値があったのだと思います。
全ての音楽に毒があるとそれはそれで暗い世の中になりそうですが、こうも健全な音楽ばかりが流行っていると、芸術とかアートって何だろう、と思わず問いかけたくなってしまうのです。
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February 18, 2008
浜松アクトシティ中ホールで開催された「バンド維新」という吹奏楽のイベントを見に行きました。
このイベントの詳しい内容はここ。
これは、正直言って非常に面白いコンサートでした。8人の超メジャーな作曲家が、吹奏楽の新作を発表するのです。
メンツがすごい。木下牧子、一柳慧、小六禮次郎、三枝成彰、丸山和範、服部克久、西村朗、北爪道夫の8人。昨日のコンサートも三枝成彰を除いて、全員勢ぞろい。しかも演奏前に各作曲家へのインタビューもあって、それがまた各人各様。服部克久なんて、テレビでしか見たことない芸能人って感じだったので、まさかこんなところで生で見れるとは思いませんでした。
曲がまたバラエティに富んでいます。現代音楽から、アニメ音楽まで、様々なタイプの曲が演奏されました。
私としては、一線で活躍する各作曲家が、日頃どんな曲を書いているのかとか、こういう依頼を受けたらどんな曲を書くのかとか、吹奏楽というジャンルにどう向き合うのかとか、そういうことに対するスタンスの違いを感じることが出来たのが最も面白かった点です。
演奏としては西村朗氏の作品が圧巻だったわけですが(素晴らしい演奏!)、私としては、どんな依頼があっても全く手加減せず自分の世界に持ち込んでしまう氏のスタンスには、やや苦笑いという感じ。
木下牧子作品は、芸術作品としての音楽の懲り方とエンターテインメント的な要素を良く織り交ぜた佳曲。むしろ教育的配慮があり過ぎ?もっと個性的でもよいかも。
小六、三枝、服部各氏はテレビ・映画音楽の焼き直し。でも、それぞれ味があって良かったし、結果的には演奏会のレパートリーとして取り上げられるような気がします。
一柳、丸山、北爪各氏の曲は、すいません。あまり、私的にはパッとしませんでした。
このイベントを通して、吹奏楽で一つ気になることがあるのです。
そもそも、今回の企画は、少人数アンサンブル的な曲を作って欲しい、という依頼だったのですが、それでもたくさんの打楽器がドンシャカ鳴っていて、どうも音楽的にしっくりしない感じがありました。
場合によっては、全く管楽器のアンサンブルと遊離しているような演奏もあるように私には思えました。
かのリムスキー・コルサコフも管弦楽法の中で、打楽器をあまり多用しないよう言ったとか言わなかったとか。
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February 02, 2008
上原ひろみのファンとしては、このCD、もちろん買わないわけにはまいりません。
そして、何と今回のCDは、ジャズ界の大御所チック・コリアとの二人のみのピアノ演奏。昨年の東京でのライブの様子を収めたものです。パッケージはCD2枚組み+DVD(2曲のみ)という豪華な内容。
もっとも、私は日頃ジャズをよく聞いてウンチクを語るような者でもないし、そもそもチック・コリアのCDさえ持ってないんですねぇ。(と書いて、CD棚を見回してみたけど、やっぱり無さそう)
でも、やっぱりよろしいです、この音楽。曲もチックの曲、上原ひろみの曲、スタンダード(ビートルズ、ガーシュイン)などバラエティに富んでいます。
ピアノの音だけしかないので、ちょっと飽きるかと思ったけど、上記の通り曲調が多彩なのと、内部奏法を使ったりするなど音色やテクニックもまた多彩で、その表現の幅の広さに圧倒されます。
ただ、何しろ二人ともピアノなので、どっちの音をどっちが弾いているのか、軽く聴いただけでは良く分かりません。
そこで、おまけのDVDの登場。
二曲だけですが、ライブの空気感が良く伝わってきて、これがまたとても良かった。ジャズというとやはりライブ音源が多いと思うのだけど、今後はもっとDVDを出して欲しいものです。(ただ、若干ピアノ手元のアングルが画質に問題あり。カメラのせいかなあ)
映像を見ていると、この二人が弾いている、というのは本当に絵になると思うのです。
かたやジャズ界の大御所、貫禄と余裕を感じさせる初老(?)の男性、そしてもう片方は、若手実力派、アグレッシブさとパフォーマンスも売り物の元気少女(?)。この対照的な二人の取り合わせは、しかし、ジャズという語法の上で、きっちりと対等に語り合っている、これがこのCDの一つの醍醐味だと思います。
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December 16, 2007
浜松アクトシティ中ホールで開催された、アンサンブル・プラネタのコンサートに行ってきました。
デビューした頃だったか、興味を持って二枚ほどアルバムを買ったことがあります。同じ頃、ついでに編曲を手がける書上奈朋子のCDも買ってみたり。ちなみにそのCD、あらためて聴いてみるとほとんどビョークみたいな雰囲気・・・
さて、コンサートのほうですが、やはり一人一人の歌手の実力の高さはかなりのものと実感。
アカペラ・アンサンブルに必要な音程感はなかなかのもの。ただし、メンバーが変わったばかりの低声部のパートがちょっと乱れた感はありましたけど。
上三人はほぼ同じメンバーで続けているせいか、アンサンブルの持つ基本的な歌い口というか、フレージングの統制が良く取れていて、それがこのアンサンブルの音楽を特徴付けているようにも思います。
最初はPAは使わないのかな、と思ってましたが、クラシカルな発声をベースにしているとはいえ、CDと同じ音を出すためにはやはりPAは必須なのですね。ただ、積極的に音声を加工するわけではなく、あくまでも各人の声の美しさをそのまま引き出すような音響設定なのは好感を持ちました。
さて演奏の質もさることながら、私などどうしてもプロとしてのこのグループの有り様について、ついつい思いを馳せてしまうのです。
歌手とはいえ、歌う前に時間をかけて水を飲んだり、ピッチパイプで音を取ったり、その後ハミングしたり(なんかアマチュア合唱臭い)するのはちょっといかがなものか。この辺りをもっと何気なくできるように研究すべきでは、と思ってしまいました。そういうステージングも含めてプロのやることだと思うし。
そういう意味では、MCなんかもちょっと素人くさいですねえ。
あと、アンコールの一番最後に使うためだけに、ずっと舞台上にピアノがスタンバイされていたのは、やはりおかしいと思います。だってアカペラグループでしょ。
実は、一番気になるのは、アカペラのアレンジ。
CDを聴いたときから思っていたのだけど、正直、かなり凝ってます。クラシックの名曲をアカペラで歌うというコンセプトながら、かなり原曲の世界から自由に離れているし、そういうところにアレンジャーの創作意欲を感じます。
ただ、かなり高音を多用していたり(もちろん、それをこなせる歌手があっての話)、器楽的なアルペジオっぽいフレーズが多いのは、無駄に難しいばかりで、もう少し演奏効果の高いやり方はあるような気がします。まあ、あくまでも私見ですけど。
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December 03, 2007
今年も行ってきました。上原ひろみの浜松公演。
昨年の話題はココ。
掛け値なしに素晴らしい、と私は言いたい。世界で最良の音楽の一つだと言っても過言ではないと、個人的には思います。
ワイルドな弾きっぷりも健在。インプロビゼーションがどんどん高揚していく感じは、もうライブでしか味わえない快感ですね。超速弾きなど、各メンバーがこれでもかという名人技を繰り広げます。
今回はギターも参加して(楽器はダブルネックだった)演奏者は全部で4人。
上原ひろみのセットも、ピアノ+いつもの Nord Lead の他に今回は Nord Stage も(エレピ用)。サウンドは全体的に豪華になりました。
それにしても、スリリングなアンサンブルとは、まさにこういう音楽のことを言うと思うのです。
敢えて、テンポの速さや複雑なリズムなどで、自らに高いハードルを課し、それを阿吽の呼吸でピタッと合わせることを最上の喜びとしているような人たち。
私もそんなギリギリのアンサンブルを体験してみたいものです。
こんなキレの良いリズムを日頃演奏している人にとっては、合唱で求められるリズム感などハエが止まるほどの生ぬるさでしょうね。
もっと、合唱にもキレのあるリズムを、私は切に求めたいです。
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November 06, 2007
イギリスのロックバンド、Radiohead(レディオヘッド)を最近聴いています。と言っても、まだ「OK Computer」と「Kid A」のみですが・・・。
ちなみに、3rd Album「OK Computer」は1997年リリース。「Kid A」は2000年。実はすんごい昔のアルバムです。
何度も聴いているうちにどんどんはまってきます。この感じは・・・そう、往年のプログレの雰囲気。といっても、やたら速弾きとか、長大な組曲とかそういうのではなくて、初期キングクリムゾンのような、退廃的でメランコリックな感じがすごくプログレっぽいのです。
その一方で、何かメカニカルな感じも持っていて、サウンドに対する先進性も併せ持っています。わずかに現れる変拍子もプログレ感を感じさせる要素。
「OK Computer」は、世界的にも大ヒットした作品だそうで、かっこいい曲がいっぱいあります。
冒頭の「Airbag」、エレキギターの主題が始まった瞬間から、何ともいえない壮大かつ悲しげな世界が広がります。二曲目の目まぐるしい曲調の変化も面白いし、終曲の寂寥感も美しい。
「Kid A」は、ギター中心のバンドの音から、電子音を多用したサウンドに変化。ミニマルな雰囲気の中に、ヨーロッパ的な哀愁が漂う、雰囲気のあるアルバム。
mixiで、Radiohead のコミュを検索していたら、何故か「病的な曲が好き。」とかいう名のコミュがヒットして、そこで語られているアーティスト名を見て、そうか、自分って病的な曲が好きだったのか、と複雑な想いを感じているところ。
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September 27, 2007
東京事変のニューアルバム「娯楽」を購入。今回のアルバムの大きな話題は、椎名林檎が一曲も作曲せず、全ての曲を他のメンバーが作ったという点。「林檎の」バンドだった東京事変から敢えて林檎色を薄めるという挑戦は、ある意味、非常にコンセプチュアルであると言えます。
ファンなら色々と賛否両論あるでしょうが、それはひとまず置いといて、この「娯楽」をネタに、各メンバーのメロディの特徴など考えてみます。
まずベースの亀田氏のメロディは、J-POPの王道的メロディ。なんとも卒がなく、良く出来ている。J-POP界で多くのアーティストと仕事をしている彼のメロディは、逆に言うと歌手を選ばない一般性があります。
次にギターの浮雲氏。この人のメロディはシブい。敢えてメロディが甘くなるのを避けている感じがします。そのため、メロディが鋭角で、同フレーズの繰り返しも多い。耳に残りやすいのですが、一般性は逆に低い感じ。
最後にキーボードの伊澤氏ですが、割とJ-POP的な要素を持ちながらも、ちょっとクセがあります。同じく繰り返し型のメロディが多く、サビで音域が高くなる。また、メロディの終止があっさり気味。キーボーディストにしては、ひねりが少ない人だなという印象。
以前、椎名林檎の書くメロディについて論じました。東京事変から、こういった特徴を持つ林檎のメロディが無くなったことで、かなりバンドの雰囲気は変わったと思います。
それにしても、メロディには、かなり作り手の個性が出るものです。
気が付いたらそうなっていた、ということもあるし、頭に浮かんでも自分が書くメロディとして絶対許せないというものもあるでしょう。あるいは、積極的に人工的に音の配列を考えることだってあります。
そういうことの総体が、メロディの書き手の個性に繋がっていくわけです。
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July 31, 2007
以前もこんな談話を書いていましたっけ。
シンセサイザーの話をするとすっかり昔話になってしまうのだけど、でもやっぱり冨田勲は素晴らしい、と私は言いたい。
彼はシンセサイザーという機械を、もっともクリエイティヴに使いこなした音楽家の一人だと思います。もっとも、基本的に音楽そのものは氏のオリジナルでなく、近代のクラシック曲のアレンジなのだけど、音楽が表現したいことを的確に捉えた上でデフォルメし、あるいは、全く新しい音楽への息吹の与え方を示した、という意味で、本当に独創的な音楽家だと言えるでしょう。
まあ、いくら言葉で言っても、これは聴いてみないことには理解してもらえないかもしれませんね。「月の光」「展覧会の絵」「惑星」など原曲も有名なモノも多いので、未聴の方はぜひ聴いてみてください。部屋を暗くして聞くと、その幻想的な雰囲気に圧倒されます。
実際、自分でいろいろシンセをいじっていると、作っているうちに何やっているんだかわからなくなることもしばしば。あらためて冨田勲を聞いていると、あれだけ多種多様な音を作り出し、それをライブラリ化していることだけで驚きです。
もちろん、冨田勲と言えばこの音、というトレードマークのような音もたくさんあります。なかでも、「ゴリウォーグのケークウォーク」の人の声のような音は印象深いですね(「惑星」での宇宙飛行士の声にも使われている)。
冨田勲は、同じく理系的な音楽家として、大いに共感し、そして尊敬すべき芸術家なのです。
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July 28, 2007
ウン十年前、シンセはいろいろな音が作れる、と言われたものでした。・・・とはいっても、普通そう言うと、「じゃあ、ピアノの音を作って」とか「人の声を作って」とか「ヴァイオリンの音を作って」といったように、言われてしまうのがオチ。まぁ、一般的には有りものの音しか、人は想像することが出来ないものです。
しかし正直言って、自然の音など複雑すぎて、合成的な手段では音を作るのは不可能と言っていいと思います。実際、最近のシンセというのはPCM音源といって、結局のところ、実際に楽器を録音した音をメモリに詰め込んで鳴らしている、いわばテープレコーダのようなもので、まさに上記のような有りものの音を再現するために出てきた楽器と言えます。
そもそも、アナログシンセというのは、この世には無い不思議な音を作るために存在している、と言っていいと思うのです。幻想的なストリングスとか、フヮ~とした音とか、金属的なベルのような音とか、ビョンビョン鳴るような音とか、それらは何かの楽器の特徴を感じさせながらも、全く聴いたことのない音であり、異次元的、宇宙的なイメージを人々に与えることができるのです。
結局、アナログシンセで音を作る、ということは、頭の中にある音色のイマジネーションを現実化するということであり、そこには作ろうとする者の明確な意思があり、だからこそ、音色を作り出すということが一種の芸術的な行為であるとも言えるのです。
残念ながら、作ろうという強い意志がなければ、やはりシンセでイイ音は作り出せないのです。
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July 23, 2007
そういえば最近ワクワクするようなモノを買ってないなぁ、と不意に思って、シンセサイザーを買ってみようと思い立ちました。
もっとも、どでかいキーボードを置くような場所も無いし、鍵盤を弾く練習をするわけでも無いので、小型のヤツで十分。それに、弾いて遊ぶというよりは、音をグニョグニョいじって遊びたいので、PCM音源でなくてアナログモデリング系が面白そう。出来れば、合唱の練習で使ったり、場合によっては単旋律くらいなら本番で使ってみたり、なんてことも考えてみました。
というわけで、私が買ったシンセサイザーはKORGのR3。
この製品、結構今人気があるようで、ネットショップのどこに問い合わせても品切れ&入荷はだいぶ先とのこと。あきらめていた頃に、某ショップで残り一台あるとの連絡が入り、すぐに購入。
R3の良いところは何といっても、そのサイズと軽さ。
標準鍵で3オクターブの大きさで、重量は何と2.8kgという軽さ!3オクターブなら、片手で弾くメロディならたいていカバーできるし、何といっても持ち運びが簡単というのは嬉しいです。
音も、いかにもシンセ、というような、ビョンビョンした音が久しぶりにワクワクさせます。いろいろなプリセット音を聞いていると、昔大好きだった冨田勲の世界を思い起こすような音もあったりして、往年のアナログシンセっぽい音にちょっぴり郷愁を感じたりします。
そんなわけで、久しぶりに刺激的な音体験が出来そうです。
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July 18, 2007
妻が参加しているクロチェットという女性だけの古楽アンサンブルグループの演奏会が、月曜日の祝日に浜松でありました。
私も、関係者として演奏会のお手伝いをしました。ちなみにチケット係は妻の両親。
基本的には、録音担当ということで、レコーダを設置した後、本番では録音ボタンを押しただけ。
後は、チェンバロの搬入、搬出を少し手伝わせていただきました。
私はそれほど、古楽の熱心なリスナーではないので、あまり演奏の質そのものに具体的な評価は出来ないのだけど、バロック時代の音楽の持つ静謐さ、時代的な格調高さ、そして幻想的な雰囲気を堪能しました。
お客は、古楽ファンの集まりとは程遠い層ではあったのですが、意外にも皆さん集中して聴いていてちょっとびっくり。いい音楽はきちんとお客の気持ちを惹きつけるんだな、と感じました。
しかし、後で録音聞くと、妻の音程の悪さがやけに気になっているわけですが・・・
このアンサンブルグループ、女性だけっていうのも結構ポイントだと感じました。舞台から、何か、幻想感がより高まる感じを受けました。そういう線を上手く狙っていけば、良いグループになるのではと思います。
ちなみに、アンコールでは、某有名曲を私が編曲したモノを演奏してくれました。チェンバロ、ガンバ、バロックヴァイオリンの楽譜を書くのも私にとって貴重な体験でした。
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June 17, 2007
何に対して、「いい」というか人によって違うとしても、一般的に芸術性の高さを感じるものと、単純に面白いと感じるものには、どこかベクトルの違いがあるのでしょう。
私などは、このベクトルをいかに合わせるか、ということを考えてしまうのですが、一般的には「芸術性の高さ」というベクトルだけに注目して、それを追い求めることが崇高な活動である、と考えている人が多いと思います。このあたりが「聴いて面白くない」に繋がる遠因とも私には思えます。
もちろん、現実にはそのベクトルが決して合わないというのは確か。バッハを演奏して、そのスゴさを体感したとしても、世の多くの人はほとんどそんなものには興味がないのが現実。精緻な対位法で書かれた音楽を聴いたって、そういった技法と無縁の人にとっては、みんなが別々の旋律を奏でていてさっぱりわからない、ということにもなりかねません。
芸術性の高さ、というのは、わかるからこそ面白くなる、という要素は確実にあります。
だからこそ、クラシック音楽に関わる人は、芸術性の高さ、というベクトルにとかく拘ることになります。それは、往々にして聴衆に対する啓蒙的な態度として現れます。でも、それって、学校教育で道徳を強化していきましょう、という議論の胡散臭さに何か通じるものを感じます。
昨今、世の中が効率化するに従い、芸術性の高さを追い求める行為と、単純に気持ちよく感じる音楽を演奏することがますます乖離しているように思います。気が付くと、どちらも何か違う、という感じがしてしまうのです。
私の求めているものは、つねにそのベクトルの中間のような位置にあるのですが、それは逆にどちらからも受け入れられない、ということにもなりかねなくて、益々悩みは深まります・・・
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May 19, 2007
アマゾンってのは、うまい商売してますねぇ。一度、ビョークのアルバムを買ったら、新しいアルバムが出るとメールで知らせてくれたり、ページに行くとお奨めされたり。
意志の弱い私は奨められるがまま、ビョークの New Album "VOLTA" を買ってしまいました。前作メダラは、何しろほぼ声のみのほとんど実験音楽的世界でしたが、今回は、まぁ普通のポップスの範疇にかろうじて入るくらいの音楽にはなってます。
それでも、ビョークの創造性はあらゆるカテゴライズを否定し、思いのまま全く自由な音楽空間を作り出します。一般的に見れば、それは単なる奇抜さに見えるかもしれないけど、そこに潜む必然性に気付くとその深い芸術性に感嘆することになるわけです。
などと偉そうに言ってますが・・・いやいや、なかなか音楽の意図を汲み取るのは難しいのですけど・・・
変幻自在なヴォーカルも聞き応えがあるし、電子音と土着的なリズム音との取り合わせ、トラディショナルなブラスセクション、琴みたいな音とかサウンドもバリエーションが多くて楽しめます。
詩も(訳詩だけど)読んでみるとなかなか興味深いです。1曲目「わたしは地球への侵入者よ~」なんて表現で、地球的な危機に対して、危機を起こす立場で詩を記述しながら、逆説的にこの危機的状況を訴えかけているというのは面白い。基本的にビョークがシリアスなアーティストなのが読み取れます。
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May 08, 2007
デジタルオーディオの音量の話から、ちょっと派生して、ハイスペックなデジタル音声について思うことなど。
前も書いたように、CDのスペックは 16bit, 44.1kHz なわけですが、最近はさらにスペックを上げた 24bit, 96kHz のデジタルオーディオが話題になることが多いようです。
bit数が1.5倍、サンプリング周波数が約2倍ということで、データ量的には合計3倍近く増えてしまいます。デジカメで言えば、100万画素が300万画素になりました!って感じでしょうか。
そういえば最近、こんなDVDが出て、林檎ファンとしては気にはなるものの、うーん、買うのはちょっとなぁっていうのが正直なところ。
もちろん私としては、24/96が音が良くなるのは理屈上わかっているつもりですが、実際の話、私たちが普通に音楽を楽しむにははっきり言って過剰なスペックだと思っています。
24/96のデータの音の良さがきちんとわかるためには、そもそもとてつもなく立派なオーディオルームで最高級のアンプとスピーカが必要になるはず。サンプリング周波数が96kHz ということは、48kHz までの信号が再生可能ということになるわけですが(サンプリング定理より)、そもそも、ほとんどの世の中のスピーカは20kHz以上の音は出ないはずなんですがねぇ。
それに、24bit っていうのもすごい数字です。ダイナミックレンジは1bitで約6dBなので、24×6=144dB というとんでもないダイナミックレンジを表現できるのですが、これだけのレンジに耐えられるSNを持ったアナログ回路ってあり得るんでしょうか。
私も仕事柄、音量とdBの関係については日常的に扱っていますが、普通50dBも音が小さくなると、ほとんど音は聞こえなくなります。そういう意味では CD の96dBも相当なスペックであることは確かです。
と、そんなわけで、24/96の音の良さを体感するには、かなり限られた環境が必要だと思うのですが、それを聞いた人が、全然音が違う、なんて言うのを聞くたびに怪訝に感じてしまいます。
もちろん、24/96は最終データでなくて、音楽製作の段階では非常に有効なのは確かです。四捨五入はなるべく最後にしたほうが(つまりミックスダウン時)計算誤差は少なくなるからです。(意味不明?)
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May 03, 2007
音楽を電気を使って伝える限り、伝えられる最大量は決まってしまいます。
電話、テレビ、ラジオ、CD、その他オーディオ系ファイル(MP3)など、全て伝えられる上限があるわけです。こういった上限を帯域などといったりしますが、デジタル音声信号で言えば、CDの 44.1kHz, 16bit というスペックが基本でしょう。
ちなみに、上記CDのスペックを帯域的に表現しようとすると、44100×16×2 ≒ 1.4Mbps となります。ADSL でもCD並みの音を送ることが出来るわけですね。(ちなみに 2 をかけるのはステレオ信号なので)
こういった限られたスペック内で、少しでも音量を上げるにはどうしたらよいか。
もちろん、信号自体を大きな数値にすれば良いのですが、そうすると、いつか信号の一番大きなところが、スペックを超えてしまいます。16bit の場合なら2の16乗なので 65535 より大きな数値を記録することが出来ません。
こういった場合には、信号全体のダイナミックレンジを圧縮した上で、音量をかさ上げすることが一般的です。ダイナミックレンジの圧縮は、コンプレッサーというエフェクトを使用します。
楽器の録音時にももちろんコンプレッサーは使うのですが、曲全体が出来上がった後で、さらに最後にもコンプレッサーをかけたりします。この場合、周波数帯域ごとに圧縮率を変えられるマルチバンドコンプレッサーが使われます。
これをうまく使うと、本当に音がすっきりしてくるし、もちろん音楽全体の音量がかさ上げ出来るので、ずいぶん印象が変わります。もちろん、現状世の中に流れている音楽のほとんどは最後にこういった処理がされているはずです。そして、こういったコンプレッサーの過剰な使用が、近年のCDの音量アップに繋がっているのです。
正直、クラシックのCDだって、こういう処理が全くされていないとは、私にはとても思えません・・・。実態は詳しくありませんが。
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April 22, 2007
楽器の発達の話をしたので、それに関して思うことなど。
以前も書いたように、楽器の発達の目的の一つは音量を上げることにありました。
これはぜひ、知っておいてもらいたいことなのですが、人間とは単純に音量が大きいほど、印象深く感じる傾向があるのです。音楽の印象深さ、音が与える印象深さには、もちろん色々な要素があるわけですが、ほんのちょっと音量を上げるだけで、人々は音量が増えたと気が付かないまま、そのもの自体の印象は高まります。
例えば、テレビの番組の合間に流されるコマーシャルは、番組よりも少しだけ音量が上げてあります。コマーシャルになるとやけにうるさく感じるはずです。私は関係者では無いので、こういう仕組みがスポンサーと番組制作者とどんな関係において起こるのかは良く知りませんが・・・。
あと、良く分かる例としては、CDの音量です。10年以上前のCDを聴いたりすると、随分音が小さく感じたりしませんか。レコード会社にとっては、少しでもCDをたくさん売りたいのです。それなら、とここ10年くらいCDの音量がどんどん上がってきています。
CDに限らず、楽器でも何でも、電気で音を出そうとする場合、電気的には最大音量が決まってしまいます。また、その電気回路が扱えるダイナミックレンジも決まっています。例えばデジタルの世界で言うなら、CDの信号は16ビットのリニア波形なので、最大96dBのダイナミックレンジがあります。
ところが、音楽全体の平均音量を上げるということは、せっかくのダイナミックレンジを犠牲にして、音量の高いほう側に音楽信号を貼り付けてしまう、ということでもあるのです。
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March 03, 2007
昨年のコンサートで大感激した上原ひろみのニューアルバム、もちろん買わないわけにはまいりません。
今回は「時間」をキーワードにした、一種のコンセプチュアルなアルバムです。また、これまでトリオ編成でしたが、今回はギターが加わり4人編成。
全体的にはギターが加わったことにより、サウンドがよりロック化してきました。曲全体もよりプログレ感が増し、なかなかいい感じです。「時間」というテーマ性のせいか、シンプルで分かり易い楽曲がむしろ減る方向になり、トータルとしてはマニアック度が高まっているように感じます。
ギター参加でロック化と言っても、やはりメインはピアノ&キーボードであり、いわゆるロックバンド的なサウンドとは全く違います。この手の音楽は基本的に一発録音らしく、ヘッドフォンで聴くとアンサンブルの息遣いが感じられてなかなかいい感じ。
ただ、プログレ化は大好きな方向性なのだけど、逆に言うとアルバム全体にちょっとメリハリが無いような気がしました。凝っているのだけど、全体が一本調子みたいな。ところどころ、以前の楽曲のエコーなども聞こえます。できれば、もっと曲調のバリエーションが増えるといいなあ、と感じました。
まあ、それでもCDで聞く印象と、ライブではまた違うと思います。ライブだと、さらにワイルドに、アグレッシブになるのかもしれません。機会があればコンサートはまた行きたいですね。
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February 25, 2007
大ヒット曲となった「千の風になって」ですが、ひねくれモノの私は当初より、フォーク崩れのメロディを声楽家が歌った変な曲、と冷ややかな目で見ていたのです。
この週末、実家に帰って、母がいろんな人から「千の風になって」って素晴らしい曲だから一度聴いて、と言われたという話を聞きました。CDなんか扱い方も知らない母ですが、ぜひ聴きたいと言われ、CD屋に行って「千の風になって」のCDを購入。ラジカセで母に曲を聞かせてあげました。
そして、実際聞いてみると、なるほど、これはある意味スゴイ曲だということがわかってきました。
近親者、特に配偶者を亡くした人の悲しみというのは、やはり経験した人でなくてはわからないものなのだと思います。大切な人を亡くして、その人を供養したいという気持ちは、そのまま、その人がこの世でないどこかに存在していて、私たちが暮らしているのを見守っているのだ、という考え方に直結します。
だから、イタコとか霊媒師のような人々がどんな社会でも古来からいたのだし、そういう人たちを必要とする心境もわからないではありません。(ちょっと昔の映画で「ゴースト」の黒人女性霊媒師を思い出しますね~)
私の思うに、この「千の風になって」という曲、イタコや霊媒師を通して亡くなった人を感じたい、まさにそういう心理をそのまま具現化したような曲だと感じたわけです。
この曲を知らない人に簡単に紹介すると、この曲の詩は、死んでしまった人が今生きている人に対して「私はお墓の中にいるわけではなくて、風になっていつもあなたを見守っているんですよ」と語りかけている歌です。
この歌を、ポップスや演歌の歌手でなくて、声楽家的な声で歌っているというのがミソ。端正でいくぶん無表情なあの声楽的な声が、まさに天から届いてくるような神聖さを象徴させているのでしょう。
いやー、こりゃルール違反ですよ。大事な人を亡くした人がこの曲を聴いたら、そりゃ泣けてくるに決まってます(T_T)。まるで歌を通して、亡くなった人が自分に語りかけてくるような、そんな錯覚を感じてしまいます。そう考えると、日本中の悲しみに暮れる人々への霊媒師としての役割をこの曲は担っているわけです。
正直、この歌手が一発屋で終わってしまうのは避けられないこととは思いますが^^;、音楽の仕掛け方は実に巧妙なものだと感じ入ったのでした。えぇ、もちろん母も目頭を熱くしていましたとも。
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February 21, 2007
今日の朝日新聞の全面広告には驚きましたね。何か売り出し方も半端じゃない気合を感じる、椎名林檎の4年ぶりのソロアルバムなのです。発売日当日にCDゲットしてここに感想書く私もかなりの林檎オタクでございます。もちろん期待を裏切らない非常に内容の濃い音楽でした。
今回のポイントは
・アルバム中のほとんどが既存曲の再アレンジ。
・椎名林檎が映画「さくらん」の音楽担当をしたことによる、その副産物的アルバム。
・斎藤ネコ氏をアレンジの中心にすえ、全体的にオーケストラサウンドがメインとなっている。
といったところでしょうか。
ところが一聴したところ、オーケストラ中心だというイメージともまた違っているように感じました。正直言って、凝りすぎな部分もあり、軽く音楽を聞きたい人にはちょっと重過ぎるかもしれません。
例えば、「ハツコイ娼女」「花魁」の打ち込み系サウンドはかなり前衛的で、「ハツコイ・・・」のサビの部分など、前衛合唱曲のような歌唱の音節分解がされていたりします。
その一方でコテコテの4ビートジャズや、タンゴなどのラテン系編曲もあり、サウンド的にはよりどりみどりという感じ。ボーカルも、かなりドライだったり、リバーブ深めだったり、曲によって全く別の加工がされています。
個人的には自分の好きな曲「ポルターガイスト」のミキシングがちょっと気に入らなかった。せっかく弦楽合奏で録音したのに、モノラルのラジオ的サウンドにいじってしまったのが、ちょっともったいない気がするのです。
何しろ凝ってます。管弦楽奏者を集めて相当お金をかけて製作しているようだし、サウンド的な懲り方もかなりのものです。でも、ポップスなんて、このくらい凝っているほうが飽きがこなくていいのかも。
キュッと心を締め付ける切ない林檎節は健在。「夢のあと」も泣けますね。
何はともあれ、もう少し何度か聞き込んでみないと・・・
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December 19, 2006
全身タイツじゃないですよ。全身音楽なんです。
本日、上原ひろみの浜松公演行ってきました。いやあ、良かったです。もう、全身音楽としか言いようがありません。どんな言葉を並べても陳腐になってしまって、伝わらないのがもどかしい・・・ってくらい。
若さゆえの激しさっていうものもあるのかもしれません。しかし、彼女の場合、それは単なるパフォーマンスではなくて、全てが音楽の一部と化している、そんな印象を受けるのです。変拍子でさえ、知的というよりは、過激さの一部であるような気がしました。とまあ、あの弾きっぷりを見ていない人に言っても、わかりづらいと思いますね。やっぱり、音楽はライブが一番ですなあ。
上原ひろみの地元というせいか、恐らくジャズとは無縁な方々も大勢いたようです。後ろの席からは「ねぇ、こういうのってメロディないんだぁ」とか話しているのが聞こえてきて、『メロディ、ちゃんとあるやんけ!』と思わず心の中で突っ込みを入れたくなりました。
会社の人にもたくさん遭遇。ウチの新入社員とか、ウチの事業部長とか、ウチの社長とか、会場で見かけました。
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November 07, 2006
ロック歌手スティングが古楽に挑戦した、というのを聞いて思わず触手がのびました。
古楽と言っても、取り上げた作曲家はジョン・ダウランドのみ(他に1曲だけ違う作曲家の作品あり)。CDのライナーノーツには、スティングがこれまでジョン・ダウランドにいろいろな機会に出会ったこと、そしてついにこのCDを出すに至った経緯が書かれています。スティング曰く、ダウランドは400年前のポップなシンガーソングライターなのです。
しかし、これはなかなか面白い取り合わせです。
だいたいルネサンス物って、オペラ上がりの声楽家が声を張り上げて歌うようなものじゃないのです。ポップ系のアーティストの中でもとりわけ味のあるボーカリストのスティングが、ちょっとハスキーな声で奏でるダウランドは、とても雰囲気があり、イギリス的暗さの漂う音楽になっていました。
実際、ダウランドの曲には物悲しいものが多いのです。ライナーノーツによれば、ダウランドは今風に言えばウツだったらしい。ボーカルとリュートだけによるシンプルな音楽の中に、そういったメランコリーが存分に詰まっています。面白いのは、アルバム全体に何箇所か、ダウランドの手紙をスティングが朗読するトラックがあること。手紙の内容は、ダウランドらしさを良く表すものが選ばれているようです。
合唱好きなら有名な「Fine knacks for ladies」「Come again」なども歌っています。かなりドラマチックな歌いっぷりに、我々も学ぶべきことは多いのではないかと思います。
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October 17, 2006
最近、何となく思ったこと・・・
その昔、音楽文化っていうのは若者のためにあるものだと思っていました。実際、CDを買うのはほとんど若者だし、音楽の流行り廃りというのも若者が先導しているように感じていた。
そして、なぜか大人の音楽というと演歌、と相場が決まっています。少なくとも私が若者だった頃は、そんな感じだった。確かに、今でも演歌はオジ様、オバ様たちが好んで歌っていますし・・・
だから、自分が子供の頃、大人になったらみんな演歌を聴くものだと思っていました。なんで、あんな曲がいいんだろう、でもきっと大人になればわかるのかなあ、なんて感じていたのです。
ジャンルのことを言いたいわけではなくて・・・恐らく、今の私たちの世代は年を取っても演歌は聴かないかもしれません。でも、きっとユーミンや陽水やサザンとかが、演歌にとって変わる機能を持つようになるのだと思います。
歌の普遍的な内容はやはり恋愛。
若者が歌いたい歌は、現在進行形のリアルな愛の歌。等身大の自分たちが描写され、ありきたりでもささやかな幸せを願うといった内容が多いのではないでしょうか。自分に身近であるほど共感を得やすいのです。
その一方、大人が歌いたい歌というと、恋愛の現役で無くなった今、恋愛とはもはやファンタジーであり、妄想の世界。ありもしない夢物語を思い描きたいのです。そして、それこそ、大人の歌と若者の歌の違いではないかと、そんなことを感じたのです。
そう考えると、演歌のファンタジー性の高さに気付かされるのです。ファンタジーにやはり大切なのは、舞台設定と、小物。酒場とか、港とか、峠とか、岸壁とか・・・。もちろん地名も多くなります。不思議なことに、具体的な地名が付くほど、その歌詞はファンタジー性を帯びてきます。それは、かすかな想い出や、妄想が働く触媒の役目を果たすからなのでしょう。
そう考えれば、大人が演歌を聞かなければいけないという法はありません。つまり、大人は音楽にファンタジーを求めているのではないかと、思うのです。そして、そう考えれば大人の聞く音楽のトレンドというのが掴めるような気がするのです。
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September 27, 2006
映画なんかもCGを使えば、あり得ないような情景や動きだって映像を作れちゃう時代です。
そんな時代、私たちにとって何が大事かといえば、その映像が本物かどうか判断できる能力だと思うのです。もちろん、CGの細かい技術のことを知る必要は無いけど、目の前にある映像を本物だと無邪気に信じたり、逆に、何でもかんでも「こんなのCGだよ」とか言って思考停止してしまうのは良くないことです。ものすごい注意力は必要ないけど、ちょっと考えてみればわかることは、やはりきちっと考えてみて欲しいのです。
音楽の世界でも、もはや私にも区別が付かないくらい、生演奏と変わらないほどリアルなコンピュータの音声合成が可能になっています。
例えば、映画音楽で聴けるオーケストラ演奏なんかも、最近はほとんど生演奏ではないのではないでしょうか。コンピュータ上で音符を打ち込んで、リアルなオーケストラサウンドで再生させれば、かなりのクオリティのものが出来ます。最近の音楽制作用オーケストラ音のサンプリングライブラリーには、楽器独自の奏法(ポルタメント、トレモロ、ピッチカート、ミュートなど)のサンプリング音もたくさん入っていて、これらを効果的に使えば、まるで本物のオーケストラが鳴っているかのような音楽が作れます。(ただし、これらのサンプリングライブラリはとんでもなく高価ですが)
もう一つ、最近のレコーディングでは、ピッチ補正という技術がふんだんに使われるようになっています。
だいたい、歌をレコーディングをすると、テイクを重ねるほど疲れが出てきます。しかし、「このテイク、勢いがあるんだけど、音程が悪いんだよなあ~」という悩みは、いまどき全てこのピッチ補正が解決してくれるのです。
今や、ほとんどのレコーディングでピッチ補正が使われているそうです。ここ数年にリリースされたCDでは、どの歌手も非常に音程が良くなっているはず。
だからこそ、歌を歌っている我々は、あまりにもピッチが正しすぎる歌に対して、もっと懐疑の耳を持たねばなりません。人間の能力は、良く考えれば誰にでもわかります。あり得ない正確さに対して、これからの時代、もっと敏感になる必要があると思うのです。
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August 23, 2006
ビョークが、アイスランド出身か、アイルランド出身かで妻と口論。ネットで調べていたら、最新アルバムが「声」を中心に作ったという記事を読んで、早速そのCDを買ってみました。最新と言いながら、実は2年前の発売ではありますが。
最初に聴いて、こりゃあ凄い!の一言。何がどう凄いか、と言われても困るのだけど、こんなのポップスとかじゃ全然なくて、超アバンギャルドですよ。一般の人が聞いたら、「全然わかんな~い」とか言われそうな感じ。もちろん、これだけの前衛なつくりはビョークだからこそ許されるし、評価されるのかもしれませんけど。
「声」を中心に作ったと言っても、アカペラのハーモニーというのとは全然違います。声は音楽の素材として徹底的に分解され、その断片をコンピュータ上で再構成したといった感じ。それでも、人の声の持つ多彩な表現が追求されており、ビョークの特徴的な歌声と相まって、作品全体が芸術的な域まで高められていると感じました。
柴田南雄的とでも言えそうな音の洪水、オカルト一歩手前の気味悪さ、ヒューマンビートボックスの軽快なリズム、そういった多面的な声の表現を追及しているにもかかわらず、その音楽からどこまでも寒々とした寂寥感を覚えるのはビョークならではなのでしょうか・・・
CDの解説にあったビョークの言葉が印象的。「文明も何もいらない。手と足と血と肉、そして声さえあれば」
ちなみに、ビョークはアイスランド出身です。合ってたのは妻でした。^_^;
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August 20, 2006
このブログをずっと読んでいただいている人は知っているとは思いますが、ただ今、椎名林檎に心酔中。
すでに6年前からかなり気に入ってはいたのだけど(これとかこれとか)、最近はライブDVDを良く見ています。
これがねぇ、本当にカッコ良いんですよ。贔屓目に見なくても、彼女の音楽性の高さ、芸術性の高さは特筆すべきと思っているのだけど、なかなか世間的にはそうでもないみたい。って結局、単なるファンの戯言なのか・・・
で、妻に「いいでしょ、コレ」とか言うと、「椎名林檎の声が嫌い!」と返されます。うーん、それがいいのに。
確かに、合唱をやっていると、林檎的歌唱の世界とは全く相容れないものがあるのは確か。高い声で張り上げる声は喉をつぶしたようなキツい発声で、あんな声のままで歌い続けたら、いずれ声が潰れるんじゃないかと心配するくらい。逆に言えば、椎名林檎の声帯は、異常に強いのだと思います。あの声質で絶叫し続けて、これまで歌手活動を続けているんですから(ついでにタバコもがんがん吸っているようだし)。
私は正しい発声じゃないから、あんな歌い方は嫌いだ、などと野暮なことは言いませんよ。
あの声だからこそ表現できる世界があるし、エキセントリックな表現者として、その個性はますます際立つのです。ステージでの妙に芝居ぶった振りなんかも、彼女がライブをSHOWとして、一つの芸術作品として作り上げようとする芸術魂を感じます(しかし、普通のJ-POPファンにはそれも気に入らないのだろうけど・・・)。
歌というのは、みんなの気持ちを前向きに高揚させようとするポジティブな側面があるのと反対に、個人の内省的な心情を切々と歌い上げるという機能もあるのだと考えます。そして、椎名林檎は明らかに後者のタイプの表現者なのだけど、それゆえにアングラ的なマニアに支持されているように思われるのは、私には不本意なのです。
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July 31, 2006
ひところ、合唱界で流行ったマリー・シェーファーですが、最近某団体でガムランを振ることになり、私もようやくシェーファーと関わることになりました。
合唱作曲家としてシェーファーは日本でも比較的知られているものと思いますが、一般的にはサウンドスケープという言葉の提唱者として知られているようです。私自身は、サウンドスケープをアカデミックな立場で関わったことはないので適当なことは言えませんが、訳せば「音の風景」ということで、私たちの周りにある音、音響を風景として感じるといったような意味なのでしょうか。
しかし、逆に風景、情景としての音を音楽にする、と考えると、これはまさにシェーファーの作風に繋がるわけです。一見、シェーファーの音楽は、オモシロ系、キワモノ系、飛び道具系、といったような作品だと思われてしまうことが多いのでしょうが、それは私たちが合唱コンクール的なモノの見方に毒されているからかもしれません。
合唱といえば、歌詞にメロディが充てられ、それにハーモニーが付いているもの、と考えがちですが、もしかしたら人間の声で何かの音を模倣する、というのはもっと根源的で原始的な人間の習性なのでは、とか思ってみたりします。
100万年前、まだ人類の祖先が十分に言語を獲得していなかったころ、彼らは獰猛な獣が来ることをどうやって仲間に伝えたでしょう?その獣の様子を真似したのではないでしょうか。そして、そんな感じで彼らは、何かを真似ることで何かを指示し、そして言語を発展させたということはないでしょうか。
ちょっと大それた推論ですが、自然の音を真似ることが、一つの芸術表現として我々に強い印象を与えるのは、そんな背景があるような気がします。そして、シェーファーはその可能性に気付いた稀有な創作家なのかもしれない、と私には思えます。
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